司馬江漢/wikipediaより引用

文化・芸術・伝統

自ら死亡通知書を出した司馬江漢(鈴木春重)天才画家の生き方とは

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「芸術家肌」って、
=ちょいヤバい人
というイメージですよね。

日本の歴史上でもたまに見かけはしますが、文政元年(1818年)10月21日に亡くなった司馬江漢(鈴木春重)もその一人でしょう。

どことなく中国っぽい名前は「しばこうかん」というペンネームです。
本名は”安藤峻”といいまして、こちらは現代にもいそうな感じがしますね。

早速その生涯を追ってみましょう。

 

江戸の町人に生まれた司馬江漢

司馬江漢は延享四年(1747年)、ごく普通の江戸町人の家に生まれました。

小さい頃から絵が好きで、いつか絵の道で生活し、後世に自分の名前を残したいと考えていたようです。
それが見事に叶っているのですから、幼少の頃から自分の好みと仕事の適性がフィットしたんですね~。羨ましい。

そこで狩野派の絵師や浮世絵師などさまざまな人に弟子入りしてあらゆる技法を学びました。

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日本画だけでなく西洋画や漢画(中国の絵)についても学んでいたといいますから、かなり好奇心や向上心の強い人だったのでしょう。
世の中、デカい目標を立てる割に努力をしない人のほうが多いですが、江漢を見習いたいものです。

また、同時期の奇才・平賀源内と親交があったらしく、彼を通じて何人かの画家と知り合い、さらに新しい技法を身につけていったといわれています。

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源内とも馬が合ったようで、西洋の自然科学について教えてもらったり、一緒に鉱山へ行って採集をしたりといろいろやっていたようです。風景画の参考にするという目的もあったのでしょうね。

源内のツテで蘭学者とも知り合いになり、オランダ語の文献から銅版画の作り方を読み解いて実際に作ってもいます。
蘭学者たちに手伝ってもらって入るでしょうが、外国語の資料しかない中でそれまで全くやったことのないものを作ったのですから、江漢自身の頭脳も相当のものだったのでしょう。

 

油絵を長崎のオランダ人から学ぶ

天明の大飢饉が終息に向かう頃(天明八年=1788年)には長崎への道中で初めて富士山を見て感動し、以降、富士山の絵をよく描くようになったそうです。

富士山って今でも天候次第では千葉あたりからも見えるんですが、当時はどうだったんですかね。
「間近で見るのが初めてだった」という意味でしょうか。

旅路の間は風景の写生を多く行い、「東海道五十三次」のモデルになったのではないかとされているものもあります。確定はしていませんが。

長崎にいたのは一ヶ月ほどで、その間、通訳の人と知り合いになったり、オランダの船に乗せてもらったり当時の一般人ではなかなかできないような体験をしたようです。

また、初めて本場の油絵を見て「日本にある材料で同じようなことができないだろうか」と考え、カンバスや油絵の具の代用品を生み出しました。
カンバスの布には絹(!)、絵の具には荏胡麻(えごま)の油に顔料を入れたものを使ったそうです。
荏胡麻油は傘の防水や漆器の彩色に使われていたので、それを使って油絵を描こうと思いついたのだとか。

卓文君像 絹本着色/wikipediaより引用

言われてみれば「できそう!」と思えますけども、当時の状況からしてなかなか思いつけることではないですよね。
日本画の絵の具も膠(にかわ。動物の皮膚などから取ったコラーゲンを加熱したもの。純度の低いゼラチン)に顔料を混ぜて色を調整しますので、膠を油に置き換えて考えたのでしょうか。

ワタクシも高校時代にやったことがありますが、この混ぜる作業が結構楽しいんですよね。
水彩絵の具に比べると手間もかかる上、元が動物のアレコレなのでくっさいんですが、画家にとっては画材のにおいなんて慣れっこでしょうし。
もしかすると、江漢も絵皿の上で絵の具をぐるぐる混ぜているときに「コレをアレすればよくね!?」なんて思いついたのかもしれません。

 

自ら死亡通知書を出して引きこもるが

こうして和・漢・洋の絵画について学んだ江漢は、さまざまな技法を使いこなしてそれまで日本にはなかったような作風を生み出しました。

前述の絹に描いた絵は西洋的な色彩でありながら日本画の趣も強く残しており、”寒柳水禽図”などは「カラーになった水墨画」とでもいうのがふさわしい独特の作品になっています。

寒柳水禽図/wikipediaより引用

その後、技術を追い求めるうちにどんどん人付き合いが煩わしくなり、同時にそれまで親しかった人が次々に亡くなっていったため、自身の晩年にはなんと【自分の死亡通知を出して】まで引きこもっていたそうです。

後々どうしても外出する用事ができたときにバレたのですが、そのときでさえ「死人は声を出さぬ」と言っていたとか。いや、出しとるがな。

人からの縁でさまざまなことを学んだ江漢ですから、老年に至って「これ以上人と付き合っていても、修めるまで体が持たないだろう」なんて考えたかもしれませんね。
死亡通知を出したのは亡くなる五年前=66歳のときなので、当時としては”そろそろ”な年齢ですし。

好きなことを純粋に追い求め、自分のものにし、当初の目的である「歴史に名を残す」ことまで全てやってのけたその生き方、とても眩しくうらやましいですね。

現代人にとっても学ぶところの多い人ではないでしょうか。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
司馬江漢/wikipedia

 



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