薩摩義士碑/photo by Mikeneke wikipediaより引用

江戸

木曽三川で起きた「宝暦治水事件」薩摩義士と家老・平田靱負は腹を切る

宝暦四年(1754年)4月14日は、宝暦治水事件の最初の犠牲者が発生した日です。

インフラ整備である治水工事で「犠牲者」というのもピンとこない話ですが、当時の社会事情や技術的な問題が絡みあっての悲劇でした。

順を追って、経過をみてみましょう。

 

長良川・木曽川・揖斐川が複雑に……

この件に大きく関わる治水工事が行われたのは、現在の岐阜県にある長良川・木曽川・揖斐川(いびがわ)です。

通称「木曽三川」とも呼ばれますし、地理の授業で「これが三角州だよ」「堤防で囲ってあるところが輪中だよ」なんて例に挙げられたりするので、写真をご覧になると「あ、見たことある」と思われる方も多いでしょう。

また、長良川は戦国時代において斎藤道三斎藤義龍父子が争った「長良川の戦い」でも有名ですね。

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三つの川が合流と分岐を繰り返す、大変複雑な地形のところです。

現代ですらこうですから、江戸時代やそれ以前はいうまでもありません。

宝暦治水事件当時の様子/photo by T/Y wikipediaより引用

それだけに幕府も放っておけず、たびたび工事を命じています。

これは地元の人々のためだけではなく、「工事には金がかかるから、藩の力を削げて一石二鳥だぜ」という理由もありました。

江戸時代も中頃になると、どこもかしこも財政は火の車。それでいて戦をやる気力も技術もほぼ失われていますから、ある意味経済的な争いに移行していたわけです。

裏に「藩の力を削ぐ」という目的があるわけですから、当然真っ先に狙われるのは外様の大藩です。

その次が親藩の中でアヤシイところ、外様で逆らいそうなところ……という感じになっていきます。

そして、宝暦治水事件の際、この工事を言いつけられたのは薩摩藩でした。

 

御公儀であれば逆らえず、歯噛みする思いで向かった

全国第二の大藩ですし、加えて関が原の戦い以来、幕府にとってはうまく舵を取りたい相手です。

藩主の島津家は鎌倉時代以来、ずっと薩摩の地を領していますから、徳川家より由緒正しい家と見ることもできます。

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そりゃ、幕府からすれば目の上のたんこぶですよね。遠国だったのが幸いしましたが。

しかし、薩摩藩も決して懐に余裕があったわけではありません。

むしろ、随一の遠国として、参勤交代で莫大な費用がかかっていました。

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大河ドラマ「篤姫」でも、江戸に行くまでの道のりが非常に長いことは描かれていましたね。

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それでも「ご公議である」と言われれば参勤交代だろうが、よその工事だろうが、従わなければなりません。なにか不手際があれば藩主、もしくはお家が罰されるのは目に見えています。

薩摩の人々は、歯噛みする思いで見も知らぬ木曽三川に向かったことでしょう。

地元では「藩主様だけじゃ無理っていうし、公方様何とかしてくだせえ」(※イメージです)という声がたびたび上がっていたので、決してポッと出てわいた工事ではなかったのですが。

 

こんな無茶ぶり許せん! 一戦交えるべきだ!

さて、この時の工事は、

「三つの川の流れを完全に分けて、水の勢いを減らすことによって水害を防ごう」

というものでした。理屈的には理想ですが、実行するとなるとそう簡単には行きません。

まずは既に壊れてしまっていた堤防を修理し、その上で流れを分ける工事をする予定でした。

が、この地域は木曽三川以外にも複数の川が流れていること、そして東側が高く、西側が低いという地形から「どこかをせき止めようとすると、他の川の水が増す」という、にっちもさっちもいかない状態であることがわかります。

その度に地元の人々は水に悩まされ、薩摩藩は地元民の収入を補うために高い賃金を出して雇い、両者とも苦しい状態が続きました。

地元民から「はるばる難しい工事をしに来て下すってありがてえ」(※イメージです)ということで、薩摩の人々に食事などが差し入れされたともいわれています。

現地での感情は悪くないものだったと思われるのが、不幸中の幸いというか、何というか。

あまりにも進展の見えない工事や金策の苦しさから、薩摩藩では「こんな無茶ぶりをするなんて、幕府は薩摩を生かしておかないつもりに違いない! 一戦交えるべきだ!!」という声も持ち上がり始めました。

とはいえそれでは、また戦国の世に逆戻りしかねません。

あるいは「ほい、来た! アンタら取り潰しね^^」となるのは火を見るより明らかです。

そのため、現地に来ていた薩摩の家老・平田靱負(ゆきえ)は血気盛んな者たちをなだめ、幕府に窮状を訴える手紙を出しました。どこの藩でもご家老は苦労しますね……(`;ω;´)

鹿児島市平之町の平田公園内にある平田靱負像/photo by Sakoppi wikipediaより引用

 

赤痢による犠牲者も出て、靱負もついに腹を切る

しかし、状況は一向に改善しません。

それどころか、せっかく作った堤防がたびたび壊されるという不審な事件が起こるほど。

犯人をとっ捕まえてみたところ、なんと「幕府の指示でやったから俺は悪くねえ!」(※イメージです)とのたまう始末です。

これでは薩摩藩士たちが「幕府は民を救うつもりなんてない。薩摩の金を絞れるだけ絞って、取り潰すつもりなんだ!!」と思うのも無理のない話です。

そこで、宝暦四年4月14日に幕府への抗議として、切腹する人が出てしまったのでした。

その後も切腹する者は後を絶たず、実にその数53人にも達し(うち薩摩藩士が51人)、靱負は三重の面で困り果てます。
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