江戸幕府――特に中期の将軍には、それぞれ一人ずつ「相棒」と呼ぶべき重臣が存在します。
「側用人」や「御用取次」など。その時々によって役職名こそ違いますが、将軍にとっての印象は同じようなものでしょう。
その最初の一人といえるのが【柳沢吉保】。
五代将軍・徳川綱吉の側用人だった人物で、正徳4年(1714年)11月2日が命日です。
よしながふみ先生の「大奥」では、なかなか業の深い役どころでしたので、名前を覚えている方もいらっしゃるのでは?
では、元ネタになった実際の吉保は、どんな生涯を送ったのか。
順を追ってみていきましょう。
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武田家滅亡で徳川に召し抱えられる
柳沢吉保の「吉保」とは、後半生に綱吉から「吉」の字を賜り、名乗ったものです。
本稿では、わかりやすさを優先し、最初からこの名で統一させていただきます。
吉保の遠い先祖は、河内源氏(源頼朝や足利尊氏らで有名な家柄)の支流で、武田氏の一門だったといわれています。
戦国時代に武田氏が滅んだ後(武田信玄→武田勝頼→滅亡)、徳川家康が旧武田家臣を召し抱えたため、以降は徳川家臣となりました。
徳川氏の中では、比較的新参の家という立場ですね。
※以下は家康と旧武田家臣の考察記事となります
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将軍家との密接な関係が始まるのは、父・柳沢安忠が幕府の直臣から綱吉の勘定頭になったところから。
吉保は側室の生まれだったため、家督は姉の婿である信花が養子入りして継いでいました。
しかし、17歳のときに吉保が家督を継いでいます。
既にこの頃には綱吉への謁見を済ませてあったので、何らかの「上意」があったのかもしれません。
また、信花は後に、とある武士との口論がきっかけで斬殺され、お家断絶になっているため、元々トラブルを起こしやすい人だった……なんてことも考えられますね。
将軍の身の回りの世話をする役割
吉保はそれからずっと綱吉に仕え、延宝八年(1675年)、将軍へ就任したとき、幕府の直臣になります。
この頃は「小納戸役(こなんどやく)」という仕事をしています。
将軍が日常の寝起きと政務を行う「中奥」というエリアで、身の回りの世話をする役割。
側近くに仕えるため、能力や機知があれば出世しやすい立ち位置でした。
誰だって、日頃よく顔を合わせる部下とウマが合えば、「コイツを引き立ててやろうかな」と思いますよね。
吉保も、働きが綱吉に気に入られたのか。
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仕え始めた翌年にあたる天和元年(1681年)には、早くも830石の領地を与えられています。
続いて、綱吉の学問上の弟子となり、更にはさほど間を置かずに自分の母を自宅に引き取っているので、このあたりでかなり良い暮らしができていたと思われます。
側用人に昇進して所領は約12,000石
そこから毎年のように加増や屋敷替えで出世。
幕臣になって10年経った貞享二年(1685年)には、従五位下・出羽守に叙任されました。
また、貞享二年(1686年)頃には、母の侍女だった飯塚染子を側室にしたらしく、翌年には息子の柳沢吉里が生まれています。
正室はこれより10年前、延宝四年(1676年)に迎えていました。
曽雌定子(そし さだこ)という、やはり武田氏旧臣の旗本の娘。
彼女は子供ができにくい体質だったようで、吉保の子どもたちはほぼ側室の出でした。
元禄元年(1688年)、いよいよ側用人に昇進し、一万石の加増。
「側用人」という役職がいつできたものなのか?
これについては諸説ありますが、吉保がその最初の例であることは疑いないところです。
加増分も含めると、この時点で所領は約12,000石。立派な大名です。
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