柳沢吉保

柳沢吉保/wikipediaより引用

江戸時代

旧武田家臣の末裔だった側用人・柳沢吉保|どうやって江戸幕府で出世したのか

2024/11/01

江戸幕府――特に中期の将軍には、それぞれ一人ずつ「相棒」と呼ぶべき重臣が存在します。

「側用人」や「御用取次」など、その時々によって役職名こそ違いますが、将軍にとっての印象は同じようなものでしょう。

その最初の一人といえるのが【柳沢吉保】。

五代将軍・徳川綱吉の側用人だった人物で、正徳4年(1714年)11月2日が命日です。

よしながふみ先生の「大奥」では、なかなか業の深い役どころでしたので、名前を覚えている方もいらっしゃるのでは?

では、元ネタになった実際の吉保は、どんな生涯を送ったのか。

柳沢吉保/wikipediaより引用

順を追ってみていきましょう。

 


武田家滅亡で徳川に召し抱えられる

柳沢吉保の「吉保」とは、後半生に綱吉から「吉」の字を賜り、名乗ったものです。

本稿では、わかりやすさを優先し、最初からこの名で統一させていただきます。

吉保の遠い先祖は、河内源氏(源頼朝や足利尊氏らで有名な家柄)の支流で、武田氏の一門だったといわれています。

戦国時代に武田氏が滅んだ後(信玄→勝頼→滅亡)、家康が旧武田家臣を召し抱えたため、以降は徳川家臣となりました。

徳川氏の中では、比較的新参の家という立場ですね。

※以下は家康と旧武田家臣の考察記事となります

家康が旧武田家臣を重用した理由
家康が旧武田家臣を重用した理由|信玄や勝頼と死闘を繰り広げたからこそ

続きを見る

将軍家との密接な関係が始まるのは、父・柳沢安忠が幕府の直臣から綱吉の勘定頭になったところから。

吉保は側室の生まれだったため、家督は姉の婿である信花が養子入りして継いでいました。

しかし、17歳のときに吉保が家督を継いでいます。

既にこの頃には綱吉への謁見を済ませてあったので、何らかの「上意」があったのかもしれません。

また、信花は後に、とある武士との口論がきっかけで斬殺され、お家断絶になっているため、元々トラブルを起こしやすい人だった……なんてことも考えられますね。

 


将軍の身の回りの世話をする役割

吉保はそれからずっと綱吉に仕え、延宝八年(1675年)、将軍へ就任したとき、幕府の直臣になります。

この頃は「小納戸役(こなんどやく)」という仕事をしています。

将軍が日常の寝起きと政務を行う「中奥」というエリアで、身の回りの世話をする役割。

側近くに仕えるため、能力や機知があれば出世しやすい立ち位置でした。

誰だって、日頃よく顔を合わせる部下とウマが合えば、「コイツを引き立ててやろうかな」と思いますよね。

吉保も、働きが綱吉に気に入られたのか。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

仕え始めた翌年にあたる天和元年(1681年)には、早くも830石の領地を与えられています。

続いて、綱吉の学問上の弟子となり、更にはさほど間を置かずに自分の母を自宅に引き取っているので、このあたりでかなり良い暮らしができていたと思われます。

 

側用人に昇進して所領は約12,000石

そこから毎年のように加増や屋敷替えで出世。

幕臣になって10年経った貞享二年(1685年)には、従五位下・出羽守に叙任されました。

また、貞享二年(1686年)頃には、母の侍女だった飯塚染子を側室にしたらしく、翌年には息子の柳沢吉里が生まれています。

正室はこれより10年前、延宝四年(1676年)に迎えていました。

曽雌定子(そし さだこ)という、やはり武田氏旧臣の旗本の娘。

彼女は子供ができにくい体質だったようで、吉保の子どもたちはほぼ側室の出でした。

元禄元年(1688年)、いよいよ側用人に昇進し、一万石の加増。

では一体「側用人」という役職ができたのはいつのことなのか?

これについては諸説ありますが、吉保がその最初の例であることは疑いないところです。

加増分も含めると、この時点で所領は約12,000石。立派な大名です。

 


綱吉は吉保邸へ58回も御成している

以降もトントン拍子に加増と昇進+αが続きました。

時系列に沿ってまとめておきますと……。

元禄三年(1690年)二万石加増&従四位下叙任

元禄四年(1691年)常盤橋内に屋敷を拝領 以降、綱吉は吉保邸へ58回も御成している

元禄五年(1692年)三万石加増

元禄七年(1694年)一万石加増

元禄八年(1695年)侍従叙任&老中格へ昇進、領地替えで武蔵国川越城主へ

元禄十年(1697年)二万石加増 寛永寺の根本中堂造営惣奉行を任される

元禄十四年(1701年)松平姓と「吉」の字を与えられ、出羽守から美濃守に遷任

この間、元禄13年(1700年)頃、吉保は武田信玄の次男の子孫とされる武田信興を綱吉に引きあわせ、高家(幕府の儀式などを担当する家柄)として再興させています。

絵・富永商太

これが縁で、高家武田家は柳沢家から複数回養子を迎えました。

武田旧臣の家系である吉保が、旧主の子孫を救った……という感じですね。イイハナシダナー。

 

他の老中たちに妬まれることもなく

にしても凄まじいのは出世っぷり。

傍系とはいえ主家・武田の再興を申し出てて、しかも成功していることからして、吉保がやろうと思えば、もっと専制的な立場になることもできたでしょう。

しかし柳沢吉保は私利私欲のための政治的活動はほぼしません。

上記の加増にしても、吉保から綱吉にねだったものでもありませんし、一回の加増量も法外とはいえません。

そのためか、こういうケースでもっとも対立しやすい他の老中たちとも、比較的穏便な関係を築いています。

人の心の中はわからないので、もしかしたら、そういう「敵を作らずに所領や官位を得る」ことが目的だったかもしれませんが……その辺は下衆の勘繰りというものでしょう。

少なくとも、綱吉の吉保に対する信頼は、生涯揺るぎないものでした。

綱吉は早いうちに跡取り息子を亡くしており、その後も男子に恵まれなかったため、甥にあたる甲府徳川家の徳川綱豊(家宣)を養子に迎えています。

徳川綱豊徳こと六代将軍・徳川家宣/wikipediaより引用

そしてその後、空いてしまった甲府城主の座を、綱吉は吉保に与えました。

この時点での甲府は、徳川氏にしか与えられない特別な土地です。

例外にしてまで吉保を後任にしたのは、彼の政治的能力が評価されたからに他なりません。

 

江戸からの指示も評価は悪くない

吉保は綱吉の期待によく応え、家中に新しい法度を作ったり、良い藩政を行うよう努めました。

彼自身は甲府に行くことはありませんでしたが、江戸から指示を出し、おおむね高い評価を得ていたようです。

藩主としての吉保は、

・甲府城や城下町の整備
・検地の実施
・用水路の整備
・実質的な減税政策

などを行っています。

また、武田信玄の百三十三回忌法要を営み、甲府住民にとっての旧主を重んじる姿勢と、自分もその末裔であることを強調しています。

現代人の感覚だと「そんな昔の人のことを大事にしても意味ないじゃん」と思ってしまいますが、この時代の一般人は「地元のお殿様」に対する好印象が強ければ強いほど、後任者への風当たりが強くなります。

甲府城稲荷櫓

甲府でいえば、綱豊(家宣)はもちろん、武田信玄も慕われていました。

彼らを軽んじてやりたい放題やろうとしても、うまくいかないわけです。

しかし、吉保自身が旧武田家臣の血を引いていますから、これは大きな武器になりました。

詳細は不明なものの、吉保の側室には公家出身の女性がいたと考えられており、彼女らを通じて公家や朝廷との付き合いもしていたとか。

そつがないというか、人との距離感を保つのがうまいというか……全て計算尽くだったとしたら、空恐ろしいほどのコミュ力です。

 

引き際もまた見事なり

吉保は綱吉の引き立てで一気に出世した人ですから、綱吉が亡くなれば後ろ盾を失うことになります。

大体の場合、そういう立場の人は見苦しく居残ろうとして政争に敗れ、悲惨な末路をたどるケースが多いですよね。

しかし、彼は引き際も見事なものでした。

綱吉が亡くなって二ヶ月後。

徳川家宣が無事に将軍職を継承したことを見届けてから、吉保は自ら隠居を願い出ているのです。

息子の柳沢吉里が家督を継ぎましたが、幕閣の一員になろうとはせず、甲府藩の内政に力を注ぎました。

後に吉宗の時代になってから大和郡山藩へ移封されていますが、吉里に落ち度があったわけではなく、前の藩主だった本多氏(こちらは忠勝の末裔)が断絶したからでした。

本多忠勝/wikipediaより引用

吉里とその子孫はこの地に根付き、無事に幕末まで続いています。

総じて、吉保とその子孫は「分をわきまえて行動する真面目な一族」だったといえるでしょう。

ここからは私見ですが……。

徳川綱吉は儒学を重んじ、出自や上下関係を大事にしていた人です。

それでも吉保のように、元の身分が高くない人をこれほど取り立てたのは、他の幕閣や下の人間にハッパをかける意図が多少あったのかもしれません。

さらに、綱吉が気に入った&学問の面でもウマが合うという好条件と、吉保自身の能力がかみ合い、異様なほどの加増をするにふさわしいと認めた人物だったのではないでしょうか。

吉保自身、それがわかっていたからこそ、驕り高ぶることなく、下手に敵を作らずに済むよう行動していたのでしょう。

うまく行き過ぎていて知名度とイメージが弱いですけれども、それが真の保身とも言える気がします。

 

六義園に感じられる気品や好み

享保九年(1714年)。

東京・駒込の六義園(りくぎえん)で柳沢吉保は息を引き取ります。

享年57。

六義園は、彼の別荘でした。

六義園

都心にある紅葉の名所として知られていますので、現地を訪問された方もおられるかもしれません。

吉保の時代から手が入れられているとはいえ、一代で成り上がった人らしからぬ気品というか、成金趣味みたいなものが全くないところです。

庭については吉保自ら工事を采配したといわれていますので、彼の人柄や好みもうかがえるかもしれません。

都心にも意外と「元大名屋敷」な紅葉スポットがあります。

六義園を皮切りにいろいろまわってみるのも、ちょっとした社会科見学で楽しいかもしれません。


あわせて読みたい関連記事

酒井忠清
下馬将軍と呼ばれた酒井忠清|家綱の文治政治を進めるも晩年は綱吉に嫌われ

続きを見る

徳川家宣
在任3年で亡くなった六代将軍・徳川家宣は意外とデキる 白石を用いた政治改革へ

続きを見る

新井白石
幕府に呼ばれ吉宗に追い出された新井白石|学者は政治に向いてないのか

続きを見る

本多正信
本多正信の生涯|家康が頼りにした側近は頭脳明晰で敗者に優しい平凡武将

続きを見る

【参考】
国史大辞典
『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon
『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
柳沢吉保/wikipedia

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-江戸時代
-

右クリックのご使用はできません
目次