鳥山検校と盲人の歴史

鳥山検校と同じく江戸時代の検校だった杉山和一/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』市原隼人演じる鳥山検校はなぜ大金持ちなのか?盲人の歴史と共に振り返る

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円一検校:徳川家康から盲人庇護の約定を交わす

時代がさらにくだると、天下泰平の世、江戸時代が訪れます。

慶長8年(1603年)、盲人を束ねる土屋円都、またの名を伊豆円一、円一検校が江戸を訪れました。

徳川家康はさぞや驚いたことでしょう。

幼いころ、今川家に滞在していた折、円一は同年代の家康のそばに仕えていたのです。

この幼馴染にさらなる仁徳ある扱いを求められ、家康の心も動いたに違いありません。

彼の側室の一人であり、秀忠の母であるお愛の方(西郷局)も視力が弱く、盲人を救うことに心を砕いていたとされます。

西郷局/Wikipediaより引用

家康の心のうちはさておき、彼が【当道座】を認めたことは確かなことです。

室町時代以来、明石覚一の築き上げてきた【当道座】の盤石な組織体系。

そして泰平の世、仁徳ある政治を目指す家康の慈悲が結びつき、盲人にとってもありがたい江戸の世が幕を開けるのでした。

それは一体どのようなものだったか?

江戸幕府の盲人福祉政策ともいえる【当道座】の制度は、慈悲を超えてもはや特権階級ではないかと思えるほど、手厚い庇護がありました。

・自治を許す→死罪、遠流など、重罪は【当道座】で裁く

・売官制度を認める→検校・別当・勾当・座頭で規定される官を売り、それで得た金は座内で配当する

・「盲金」という金貸し業の認可→先取り優越権があり、高い利息をかけてもよい

・全国の盲人を加入させることができる

・一切の年貢や労役を免除する

全国規模の構成員を持ち、そこで売官が行われる程となり、そこは巨万の富が蠢くようになりました。

しかも非課税であるばかりか、そうして得た金を、高い金利で貸すこともできる。

年貢を納めねばならぬ農民。

労役のある町人。

貧困に頭を悩ませる武士や貴族。

どの層から見ても、特権階級だと妬まれてもおかしくないメリットがありました。

江戸時代の盲人には、二つの側面があります。

免税されているということは、特権のようで、無能力者という意味合いもあり、蔑視されることとも通じているのでした。

 


八橋検校:雅な調べを作る

金銭的に余裕ができるとともに、神秘性が薄れてゆく変化もあります。

江戸時代ともなると、スローテンポの【平曲】は流石に飽きられてきます。

しんみりと平家の悲運に涙を落とすよりも、アップテンポでノリのいい三味線を楽しみたい。

あるいはますます洗練され、複雑流麗な音を奏でる箏に耳を傾けたい。

そんな新たなる音楽需要にも【当道座】は応じてゆきます。

八橋検校の箏曲『六段の調べ』は、多くの方が聞いたことがあるでしょう。

 

 


杉山検校:「三療」を盲人の技能とする

時代がくだり、五代・徳川綱吉の時代となると、盲人の歴史にとって大きな変化が訪れます。

綱吉に仕えていた杉山検校――彼は「三療」、按摩(あんま)・鍼(はり)・灸(きゅう)の名人であり、「管鍼法」を確立しました。

鳥山検校と同じく江戸時代の検校だった杉山和一/wikipediaより引用

江戸時代の管鍼(くだばり)/wikipediaより引用

杉山検校は綱吉に対し、盲人たちはこの「三療」を身につけさせてはどうか?と献策。

すると綱吉はこの案を採用して「杉山流鍼治導引稽古所」が設立されます。

多くの盲人たちがここで技術を身につけ、綱吉の治世から、日本における三療の担い手は盲人とされてゆくようになるのです。

杉山検校頌徳碑/wikipediaより引用

かくして江戸時代の人々にとって、竹の杖をつき、頭を剃った座頭の姿はすっかりおなじみの存在となってゆきます。

こうした三療を行う座頭たちは、店舗に所属するのではなく「渡世」、つまりは移動して営業するのが基本。

彼らが安全に移動できるよう地域の人々は出迎え、泊まらせ、食事を出し、次の目的地まで送らなければなりません。

しかもその費用は、出迎える側が負担するのです。

ゆえに少人数ならばまだしも、人数が多いとなると大変。

彼らの態度が悪く、不満があったとしても「東照大権現が定めたことであるぞ!」と家康まで持ち出されてしまえば言い返せなくなる。

大河ドラマ『べらぼう』の松葉屋で「やたら威張るのも多うありんすし」と禿たちがぼやく気持ちもご理解いただけるでしょう。

江戸時代が終わってからも、日本では三療が盲人の伝統的な職業とされる状況は変わりません。

【当道座】は廃止され、西洋医学が東洋医学より上とされました。

そこまで変わって、西洋式盲学校が設立されてからも、技能実習には三療の科目がありました。

この日本独自の盲人が抱える状況は「あはき問題」(あんま・はり・きゅう)と称され、現在でも様々な取り組みがなされています。

綱吉時代で、もう一つ注目しておきたいのが【伊達騒動】です。

実はその発端が吉原と関係があります。

三代目仙台藩主・伊達綱宗は吉原に入り浸り、二代目・高尾太夫を身請けしました。

仙台藩第3代藩主伊達綱宗/wikipediaより引用

しかし彼女が綱宗に靡かぬことに腹を立て、斬殺したというのです。

真偽のほどは定かではなく、脚色があると指摘されますが、ともかくこの時代の大大名が大金を自由にできる、雲の上の人であったことがわかります。

仙台藩は江戸時代から全国屈指の米所となりました。

そんな大大名ともなれば金にものを言わせて江戸一の名花を踏み躙ることすらできる。

月岡芳年『月百姿』に描かれた2代目高尾太夫/wikipediaより引用

江戸の人々が歯軋りしてしまう悪役として、この頃は偉いお武家様が存在したのでした。

しかし、全国各藩の財政が窮乏してゆくにつれ、吉原での上客はまた移り変わってゆきます。

そう、鳥山検校を初めとする盲人たちです。

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