フェノロサ/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

米国人フェノロサが日本文化を救う~法隆寺夢殿で何百年も続いた封印を!

1908年(明治四十一年)9月21日は、哲学者かつ東洋美術史家のアーネスト・フェノロサが亡くなった日です。

この方は、明治時代の日本に、あるキッカケを与えてくれた人でした。

どういうことなのか?

早速、見てまいりましょう。

 

フェノロサ、岡倉天心と共に東京美術学校を設立

フェノロサは、元はハーバード大学で政治経済を学んでいた人でした。

先に来日して東大教授を務めていたエドワード・モースの紹介で、哲学などの教授として日本へやってきたのは25歳のときのことです。

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専門は政治や哲学。

美術にも元々関心が高い人で、アメリカでは美術学校に行っていたこともあります。

そのため、日本国内の展覧会で審査員を務めたことがきっかけで、日本画家とのつながりができ、日本美術に大きく影響を受けるようになりました。

助手の岡倉天心と共に、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部の前身)を設立するほどですから、よほどの入れ込みようだったことは想像に難くありません。

岡倉天心/wikipediaより引用

他にも、当時日本人があまり評価していなかった日本画について、「ここがすばらしい」と具体的に講演したことで、日本人に自国の芸術のよさを伝えています。

 

ベルツも南方熊楠も嘆いていた当時の風潮

明治政府はフェノロサの指摘をキッカケに日本の芸術を見直し、彼の講演を紙面にまとめて全国に配布しました。

気付くの遅い……(´・ω・`)

当時の日本は、廃仏毀釈&「西洋に追いつけ追い越せ」という風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向があったのです。

わかりやすい例では、南方熊楠が大反対した、ご神木の伐採などでしょうか。

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それは美術品に関しても同じで、各地の仏像やお寺、それに付随する絵画などがむやみやたらと壊されたりしていました。

それこそ罰当たりだとか思わなかったんですかね。

実際、西洋人たちからは、冷ややかな視線を送られておりました。

フェノロサと同時期に来日していたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツも、

「自国の文化を捨てて西洋に媚びるとは嘆かわしい」(意訳)

といったことを日記に書いています。もっともな話ですね。

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何百年と封印されていた法隆寺・夢殿の扉を開いた!

フェノロサはベルツほど辛辣な言動はしなかったようですが、異国である日本の芸術品を積極的に保護してくれています。

とりわけ古いお寺や神社の宝物庫の調査を積極的に行いました。

なにせ日本滞在中に仏教へ帰依しているくらいですから、信仰心からも行動せずにはいられなかったのでしょう。

戦争が絶えず、自分たちのアイデンティティを守るために戦ってきた欧米人からすれば「誰に攻め込まれたわけでもないのに、これまで信仰してきたものを自ら破壊する神経がわからん」という感じだったでしょうしね。

そうしたフェノロサの偉業で、現在も続いているものが一つあります。

法隆寺・夢殿の本尊である【救世観音像の開扉】です。

この仏像は聖徳太子の身長と同じ高さに作られているといわれていて、何百年間もずっと封印されていました。

「開けると大地震が起きてこの世が滅ぶ」とまでいわれていたそうですが、誰がそれを言い出したのかといった背景事情は全く伝わっていません。

それでも法隆寺の僧侶たちは、謹厳にこの秘仏を守り、数百年もの間秘仏として、住職たちですら見たことがなかったのです。

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