幕末の長州藩で活躍。
維新後は政治家・実業家として頂点を極めながらも、ついに首相になることはなかった男――。
それが井上馨(いのうえかおる)です。
伊藤博文、山県有朋と並び、【長州三尊】と称され、長州閥を代表する政治家ながら、同時に何かと黒いイメージがつきまとう実力者でもあります。
明治天皇の大命で首相に推挙されたこともありながら、最後までその座に就けなかった井上。
一体どのような人物だったのか?

井上馨(長州藩士時代)/wikipediaより引用
大正4年(1915年)9月1日に亡くなった井上馨の生涯を振り返ってみましょう。
遡れば元就の家臣 名門武家の生まれ
維新志士の多くは下級藩士――。
そんな印象があるかもしれませんが、それはイメージ先行の部分も大きく、本当に足軽出身だった人物はさほど多くありません。
長州では、伊藤博文が代表的なところでしょう。
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井上家はかなり毛並みがよい方で、ご先祖を遡れば、あの毛利元就の家臣・井上就在(いのうえなりあり)という武将にあたります。
わかりやすく言えば名門の中級武士と言ったところですかね。
井上馨は、周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田)の地侍・井上光亨の次男として、天保6年(1835年)に誕生しました。
同い年の人物には、土方歳三、高橋泥舟、三島通庸らがおります。
幕末に活躍するバリバリの世代です。
名門といえども、暮らしが楽であったわけではありません。
家格は百石でも、実際の俸禄は四十石程度。
井上家は、慎ましく暮らしておりました。幼い頃の井上は、農業に従事しながら過ごしております。
藩校・明倫館には、ペリー来航の二年後(1855年)、16歳で入りました。
明倫館は拡充されたばかりであり、黒船来航で沸き立つ時代です。ここで学ぶ若者たちも、さぞや沸き立っていたことでしょう。
注意したいのは、彼は松下村塾で学んでいないということです。
2015年大河ドラマ『花燃ゆ』では、いけ好かないエリートばかりの明倫館で学ぶ武士と、誠意溢れる松下村塾生が対抗するような描写がありましたが、あれは正確ではありません。
そういう対立構造の学校ではないのです。
海外志向を持っていた
井上は、松下村塾生とは若干異なる思考回路を得ることになります。
21歳で、250石の志道慎平(しじしんぺい)の養子となり、参勤交代で江戸へ。
海軍や航海術といった西洋技術の必要性を痛感していた井上は蘭学を志願しておりました。その甲斐あってか、蘭学、江川太郎左衛門塾で砲術を学ぶことができたのです。
藩も井上の向学心を見込んだのか。
イギリス海軍の研究、イギリス船購入の担当にさせました。
国学を学び、尊皇攘夷へ邁進する道のみに突き進むタイプとは、異なっていたのです。
「攘夷をするにせよ、そのためには海軍技術を学ばねばならん」
それが、井上の考え方でした。
長州藩が尊王攘夷に傾いてゆく中、彼は冷静な部分があったのです。
万延元年(1860)年。
藩主・毛利敬親の小性役となり、井上は聞多の名を賜わりました。
敬親と藩世子。定広の側近として、江戸と萩を往復する若きエリートです。
しかし、それだけでは幕末長州藩で頭角を現すことはなかったことでしょう。
実は井上は、尊皇攘夷にも胸を熱くしていたのです。
「長州ファイブ」として留学
文久2年(1862年)は、幕末史におけるターンニングポイントです。
島津久光が上洛し、薩摩が政治の中心に立ちました。
彼らにとって悲劇となった【寺田屋事件】ですら、身内の藩士でも過激な者は処断する態度――として久光の名声を高めます。
また、この年は、会津藩が京都守護職に任じられたタイミングでもありました。
孝明天皇は、誠意溢れる会津藩主・松平容保をことのほか気に入り、篤い信頼を寄せるようになります。
藩論が攘夷と決まった長州藩としては面白くありません。
そしてここで選んだ道が「奉勅攘夷(ほうちょくじょうい)」です。
勅(=天皇の意志)を奉じつつ、攘夷を行う方針。
しかし、この勅書は偽物であり、長州派の公卿が無断で出しておりました。このことが、のちに大きな事件につながってゆきます。
井上もまた、過激な攘夷活動に参加しました。
・外国公使襲撃(計画のみで失敗)
・江戸の品川御殿山イギリス公使館を焼き打ち
こうした攘夷行為は、ただのヤンチャ行為で済まされるはずもありません。
要求された賠償金は、幕府の重い負担となり、関税自主権も奪われてゆきます。庶民の生活まで圧迫することとなるのです。
それだけではなく、長州藩を苦境に追い込むことへも繋がります(以下、関連記事をご参照ください)。
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ただし、井上がこうした攘夷行動を取る日は、翌3年には終わりを告げます。
このころ井上は、志道家から別れて井上姓に服し、藩主の許可を得てロンドンへと留学へ向かいました。
こうして留学した5人は「長州五傑」(長州ファイブ)と呼ばれました。
井上の転換は、一行の中で最も早いものでした。途中の上海で、開国論に転じたのです。
ちなみに旅の最中には、こんなヤリトリも。
「きみは何を学びたいんだい?」
「航海術(Navigation)です」
「へえ、じゃあ水夫をやればいいよ」
海軍(Navy)と航海術(Navigation)を間違えてしまい、井上は水夫として働くことになってしまったのです。
長州藩、朝敵と認定され大ピンチ
留学生活は、残念ながら長く続きませんでした。
井上が留守にした長州藩は、立て続けに暗礁に乗り上げます。
ロンドンで、長州派の無謀な攘夷砲撃を知った留学生たちは、急遽帰国することになったのです。
国へ戻った井上らは開国を主張しました。
が、受け入れられず、この状況が変化してゆくのは、長州藩が追い詰められていったからのことでした。
井上や伊藤博文は幸運でした。
尊皇攘夷を貫き続けようとした久坂玄瑞、吉田稔麿、木嶋又兵衛、入江九一らは、こうした動乱の最中、【禁門の変】に参戦し、志半ばにして命を落としていたのです。
この頃の長州をざっとマトメておきますと……。
【京都】
八月十八日の政変
池田屋事件
禁門の変
【長州】
下関戦争
第一次・第二次長州征伐
ザックリ足早に説明しますと、偽の勅を奉じたことで、孝明天皇から嫌われ【朝敵】認定された長州は京都から追い払われます。
そして、行き過ぎた攘夷行為の報復として、イギリス・フランス・オランダ・
長州藩は、もはや開国に変換するしかなかったのです。
となると藩としては、井上や伊藤らの開国派を頼るほかありません。下関戦争の講話締結において、井上らは高杉晋作とともに、存在感を見せたのでした。
なお、幕府軍に攻め込まれた第一次長州征伐では、武備恭順を主張。藩の方針は、井上の案に決まります。
元治元年(1864年)、藩での会議の帰り道、長州藩・俗論派の刺客に襲われ重傷を負いました。
一命を取り留めたのは、芸妓からの鏡を懐に入れていたとか、母が抱きついて介錯を止めたなど、女性からの愛に救われた逸話が残っています。
このとき受けた傷が、顔面はじめ井上の体に残されております。
温泉に入ると、周囲の客から驚かれ説明を求められ、やむを得ず姦通の報いだと答えたこともあるのだとか。
井上は俗論派の巻き返し時は不利な立場に置かれたものの、息を吹き返します。
慶応元年(1865年)、高杉が奇兵隊を率いて武装蜂起した際には、井上も総督として参加。第二次長州征伐でも、参謀として転戦しました。
幕末から明治にかけての混乱の中、頭角を現していくのです。
慶応4年(1868年)には、断固たる武力倒幕を主張。新時代の幕開けと邁進しました。
「今清盛」か「三井の番頭」か
明治新政府が成立すると、井上は参与として参加。
九州鎮撫総督参謀、長崎府判事を歴任、外交畑で活躍します。
このとき、浦上キリシタンの弾圧、いわゆる浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)にも関与しました。
キリスト教徒への迫害は、外国から厳しい抗議を受けます。その多難な状況に、井上は対処せねばならなかったのです。
明治2年(1869年)には、井上は通商司事務管理を命じられ、大阪在勤となました。
いよいよ明治政府の始動といワケですが、この政府内でも意見の対立が度々見られるようになります。
東洋的な道徳観と西洋技術を組み合わせるべきだと考えたのが
木戸孝允
西郷隆盛
大久保利通
といったメンツ。奇しくも維新三傑のメンバーすべてがそうでしたね。
これに対し、全て西洋流でよいじゃないか!という意見が井上ら「開明派」です。
「開明派」は「アラビア馬」と陰口を叩かれることもありました。彼らが西洋流で豪奢な生活様式を好むとされたからです。
井上は、こうした贅沢を好み、金に汚い男であるという目線がつきまといました。
性格的に、気難しく見えるところがあったのも一因でしょう。
彼には、伊藤博文のような人に好かれる愛嬌に欠けていたのです。これも誤解されやすい点といえました。
廃藩置県の後、井上は岩倉使節団不在の留守政府を切り盛りし、大蔵大輔として強大な権限を握ることとなりました。
「今清盛」というあだ名をつけられたほどです。
そこで国立銀行の設置や、三井等の政商保護政策を行ったわけですが、そのやり口は反発を招きます。
明治4年(1872年)に行われた酒宴で西郷隆盛は、井上に向かってこう言いながら杯を回しました。
「三井の番頭さん、差し上げる」
西郷からすれば、井上は三井のためにせっせと働く、胡散臭い人物であったわけです。
井上に胡散臭い目を向けていた人物は、西郷一人に留まりません。
高潔な性質であった江藤新平は、井上の強引さに反発。
尾花沢鉱山の私有をめぐっても、鋭い追及をしています(尾去沢銅山事件・おさりざわこうざんじけん)。
この事件は、混沌とした状況下で所有権が浮いていた尾去沢銅山を、井上が同郷の長州出身である岡田平蔵に買わせて私有化した――そんな疑惑です。
当時は井上のみならず、薩長出身の政府首脳にこうした疑惑がつきまといました。
明治5年(1872年)、長州出身で軍需品に携わっていた商人・山城屋和助が、生糸相場に手を出し失敗。
しかもフランスで豪遊していたことが問題視されました。
この商人に、陸軍省公金が流れていたことが判明し、山県有朋が薩摩閥から厳しい追及を受け、陸軍中将・近衛都督を辞任に追い込まれることとなります。
なお、山城屋和助は山県から借金返済を迫られるものの、返すことができず、割腹自殺を遂げたのでした。
このように様々な疑惑がつきまとった明治初期の政治家たちですが、その中でも井上の疑惑の濃さは目立ったものであったのです。
そして、ついに……。
実業界から政界復帰
予算案をめぐる紛糾や、数々の疑惑により、井上への風当たりが悪化してゆく中。
明治6年(1873年)、井上は渋沢栄一とともに連袂辞職(れんべいじしょく・共に辞めること)することとなりました。
実業界に転身した井上は、益田孝らと「先収会社(のちの三井物産)」を設立します。
実業家であると同時に、明治8年(1875年)には「大阪会議」にも関わっています。
実は、大阪会議の直前、台湾出兵をめぐって政府内で孤立した木戸孝允が、故郷に帰っておりました。
しかし、このままでは薩摩閥の大久保利通が突出することに……。
そこで長州閥の存在感を示すため、木戸が井上を頼り実現させたののが、大阪会議であるという一面もあったわけです。
政界復帰後の明治9年(1876年)。
井上は、特命全権弁理大臣として、日朝修好条規を締結。このあと、アメリカ次いでヨーロッパへと向かいます。
計画では、3年間留学する予定でした。
しかし、このころ日本は相次ぐ士族反乱により、大変な状況を迎えます。
【西南戦争】終結まで、動乱が続いたのです。
こうした動乱の中、明治10年(1877年)、木戸孝允が死亡します。
更には西郷隆盛、大久保利通も亡くなり、明治政府も変革の時を迎えるのでした。
不平等条約改正に挑む
帰国後、木戸を失った長州閥の中で、井上は伊藤と共に存在感を強めます。
明治11年(1878年)参議兼工部卿に就任。
反発もありましたが、黒田清隆や大隈重信が強く推し、実現しました。
井上の抜擢には、こうした賛否両論がつきまいながら、明治12年(1878年)には外務卿に就きます。
このころ熱を帯びてきたのが自由民権運動でした。
明治14年(1880年)、こうした自由民権運動に対処するため、井上は維新三傑亡きあと政界トップに君臨する伊藤博文、財政の責任者ともいえる大隈重信とともに、「熱海会議」で対応を話し合いました。
残念ながらこの三者は決裂。不協和音は、ほどなく響くようになっていきます。
井上と伊藤:君主大権を残すビスマルク憲法を推す
大隈:イギリス型の議院内閣制を推す
ここで井上らは、対立することもある薩摩閥とも手を組み、大隈を政権から追放します(明治十四年の政変)。
【開拓使官有物払下げ事件】に絡んで大隈が情報漏洩したのではないかと非難したのです。
そして井上は、第一次伊藤内閣で外務大臣に就任。
不平等条約改正に本格的に取り組むこととなります。
幕末から海外志向の強い井上は、強引なまでの欧化政策を断行し、「鹿鳴館時代」と呼ばれる時代を生み出しました。
むろん欧化政策は、ただの趣味ではありません。
明治政府は、治外法権撤廃を中心とする条約改正交渉に尽力していたのです。
このころの日本は立憲政治へと歩み始めていた頃でもあり、明治17年(1884年)には「華族令」を発布し、明治18年(1885年)には内閣制度が発足します。
不平等条約改正のためにも、こうした華やかな雰囲気と政治新体制が必要であったのです。
そして明治19年(1886年)の条約改正会議がスタート。
井上らの尽力もあり、日本がいつになれば国際的な司法権を回復できるか、確定できたと言えます。
しかし、この条約改正案が、国民のみならず政府内部からも反発を招きます。
井上は情報開示をあまりせず、自分で抱え込んで条約改正に当たってきたことも、一層疑惑の目を深めてしまいました。
こうした厳しい批判と冷たい目線を受け、井上は明治20年(1887年)、交渉中止の上、辞職に追い込まれます。
各内閣で大臣を歴任する実力者
明治21年(1888年)から明治22年(1889年)にかけては、黒田清隆内閣における農商務大臣に就任。
長州閥の伊藤内閣だけではなく、薩摩閥の黒田内閣でも、井上は大臣に就きます。
この内閣は、伊藤の辞任を受けて、黒田がスライド式に首相となったものでした。伊藤という長州閥の不在を補うかのように、井上が大臣に就いたわけです。
さらに井上は、前回の条約改正失敗の失地回復を狙い、「自治党」結成を目指します。
しかし、これに失敗。伊藤博文もまた新党結成を目指して挫折しました。
明治25年(1892年)年から明治27年(1894年)までは、第二次伊藤内閣における内務大臣に就任します。
伊藤が負傷した明治25年11月から翌年2月までは、首相臨時代理もつとめております。
日清戦争時は朝鮮駐在の特命全権公使に就任。
還暦手前で閣僚経験もあり、幕末から活躍していた井上が、海外にまで渡るという行動力は、驚異的なものでした。
明治31年(1898年)の第三次伊藤内閣では、大蔵大臣に就任。
しかし、これが最後の入閣となるのでした。
第三次伊藤内閣時代、井上と伊藤は憲政党に苦しめられました。
この内閣の元勲級指導者は、伊藤を除けば井上と西郷従道のみです。
自由党首・板垣退助、進歩党首・大隈重信らは、閣外から敵対する動きを見せます。
地租増徴案に反対する自由・進歩両党は、憲政党を結成。
しかも、衆議院の議席の大部分を占めてしまいました。
この動きに対抗するため伊藤と井上は結党を目指したものの、思うように協力を得られず、再度挫折。
井上は、このあと第四次伊藤内閣に誘われても断るのでした。
首相になれなかった元勲
明治34年(1891年)。
第四次伊藤内閣のあと、明治天皇より「井上が組閣すべし」との大命が降りました。66歳の井上は組閣すべく奮闘します。
しかし、大臣就任を引き受ける者が集まらず、断念に至ります。
それを機に井上は、政界の一線から引きました。以降は、幕末を知る元老として、睨みを利かせる存在になったのです。
侯爵であり、ただの元老ではない井上――。
三井や藤田組といった大財閥の顧問として、経済界にも君臨しました。
日本の資本主義に貢献したワケで、同時にそのことが金にまつわる黒いイメージにつながる面もありました。
そして大正4年(1915年)。
興津にある別邸で病没。81歳でした。
幕末の動乱を知る明治期政治家の中でも、歳年長の部類に入る長寿です。
これだけの実績があり、その機会がありながらも、首相になれなかった人物。
それが井上馨です。
バイタリティにあふれていたことは間違いありませんが、常につきまとった悪しきイメージには勝てなかったのでしょう。
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【参考文献】
村瀬信一『首相になれなかった男たち: 井上馨・床次竹二郎・河野一郎』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon)
『国史大辞典』










