井上馨

井上馨/wikipediaより引用

幕末・維新 明治・大正・昭和

井上馨(長州藩士)が“首相になれなかった男”と呼ばれる理由~81年の生涯

幕末の長州藩で活躍。

維新後は政治家・実業家として頂点を極めながらも、ついに首相になることはなかった男――。

それが井上馨(いのうえかおる)です。

伊藤博文山県有朋と並び、【長州三尊】と称され、長州閥を代表する政治家ながら、同時に何かと黒いイメージがつきまとう実力者でもあります。

明治天皇の大命で首相に推挙されたこともありながら、最後までその座に就けなかった井上。

一体どのような人物だったのでしょうか。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

遡れば元就の家臣 名門武家の生まれ

維新志士の多くは下級藩士――。

そんな印象があるかもしれませんが、それはイメージ先行の部分も大きく、本当に足軽出身だった人物はさほど多くありません。

長州では、伊藤博文が代表的なところでしょう。

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井上家はかなり毛並みがよい方で、ご先祖を遡れば、あの毛利元就の家臣・井上就在(いのうえなりあり)という武将にあたります。

わかりやすく言えば名門の中級武士と言ったところですかね。

井上馨は、周防国吉敷郡湯田村(山口市湯田)の地侍・井上光亨の次男として、天保6年(1835年)に誕生しました。

同い年の人物には、土方歳三高橋泥舟三島通庸らがおります。

幕末に活躍するバリバリの世代です。

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名門といえども、暮らしが楽であったわけではありません。

家格は百石でも、実際の俸禄は四十石程度。

井上家は、慎ましく暮らしておりました。幼い頃の井上は、農業に従事しながら過ごしております。

藩校・明倫館には、ペリー来航の二年後(1855年)、16歳で入りました。

明倫館は拡充されたばかりであり、黒船来航で沸き立つ時代です。ここで学ぶ若者たちも、さぞや沸き立っていたことでしょう。

注意したいのは、彼は松下村塾で学んでいないということです。

松下村塾

2015年大河ドラマ『花燃ゆ』では、いけ好かないエリートばかりの明倫館で学ぶ武士と、誠意溢れる松下村塾生が対抗するような描写がありましたが、あれは正確ではありません。

そういう対立構造の学校ではないのです。

 

海外志向を持っていた

井上は、松下村塾生とは若干異なる思考回路を得ることになります。

21歳で、250石の志道慎平(しじしんぺい)の養子となり、参勤交代で江戸へ。

海軍や航海術といった西洋技術の必要性を痛感していた井上は蘭学を志願しておりました。その甲斐あってか、蘭学、江川太郎左衛門塾で砲術を学ぶことができたのです。

藩も井上の向学心を見込んだのか。

イギリス海軍の研究、イギリス戦購入の担当にさせました。

国学を学び、尊皇攘夷へ邁進する道のみに突き進むタイプとは、異なっていたのです。

「攘夷をするにせよ、そのためには海軍技術を学ばねばならん」

それが、井上の考え方でした。

長州藩が尊王攘夷に傾いてゆく中、彼は冷静な部分があったのです。

万延元年(1860)年。

藩主・毛利敬親の小性役となり、井上は聞多の名を賜わりました。

敬親と藩世子。定広の側近として、江戸と萩を往復する若きエリートです。

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しかし、それだけでは幕末長州藩で頭角を現すことはなかったことでしょう。

実は井上は、尊皇攘夷にも胸を熱くしていたのです。

 

「長州ファイブ」として留学

文久2年(1862年)は、幕末史におけるターンニングポイントです。

島津久光が上洛し、薩摩が政治の中心に立ちました。

彼らにとって悲劇となった【寺田屋事件】ですら、身内の藩士でも過激な者は処断する態度――として久光の名声を高めます。

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また、この年は、会津藩が京都守護職に任じられたタイミングでもありました。

孝明天皇は、誠意溢れる会津藩主・松平容保をことのほか気に入り、篤い信頼を寄せるようになります。

藩論が攘夷と決まった長州藩としては面白くありません。

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そしてここで選んだ道が「奉勅攘夷(ほうちょくじょうい)」です。

勅(=天皇の意志)を奉じつつ、攘夷を行う方針。

しかし、この勅書は偽物であり、長州派の公卿が無断で出しておりました。このことが、のちに大きな事件につながってゆきます。

井上もまた、過激な攘夷活動に参加しました。

・外国公使襲撃(計画のみで失敗)

・江戸の品川御殿山イギリス公使館を焼き打ち

こうした攘夷行為は、ただのヤンチャ行為で済まされるはずもありません。

要求された賠償金は、幕府の重い負担となり、関税自主権も奪われてゆきます。庶民の生活まで圧迫することとなるのです。

それだけではなく、長州藩を苦境に追い込むことへも繋がります(以下、関連記事をご参照ください)。

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ただし、井上がこうした攘夷行動を取る日は、翌3年には終わりを告げます。

このころ井上は、志道家から別れて井上姓に服し、藩主の許可を得てロンドンへと留学へ向かいました。

こうして留学した5人は「長州五傑」(長州ファイブ)と呼ばれました。

・井上聞多(馨)
・遠藤謹助
・山尾庸三
・伊藤俊輔(博文)
・野村弥吉(井上勝)

長州ファイブ/wikipediaより引用

井上の転換は、一行の中で最も早いものでした。途中の上海で、開国論に転じたのです。

ちなみに旅の最中には、こんなヤリトリも。

「きみは何を学びたいんだい?」

「航海術(Navigation)です」

「へえ、じゃあ水夫をやればいいよ」

海軍(Navy)と航海術(Navigation)を間違えてしまい、井上は水夫として働くことになってしまったのです。

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