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日本で40人が死亡するも大流行は防いだ
1896年、横浜に入港した中国人船客がペストで死亡しました。
これが日本初のペストで、幸か不幸か、この時は単発で終わり。
そして1899年11月、遂に日本でもペストが流行しはじめます。
余談ですが同年5月、北里の推薦で横浜の海港検疫所に赴任した『野口英世』が入港した船にペスト患者2人がいることを発見し、水際で防ぐナイスプレーをしています。

野口英世/wikipediaより引用
しかし、流行の兆しは決して否定しきれず、1899年は45人のペスト患者が発生して40人が死亡。
不穏な空気が流れます。
この時すでに北里はペストの防御策を講じていました。
伝染病予防の大切さを大臣や役人に説明して回り、1897年に「伝染病予防法」を成立。
そこには彼の主張通り、患者の隔離、地域の消毒、船舶や列車の検疫など必要な事項が盛り込まれていました。
そして1899年には「海港検疫法」にペストが追加されるのです。
北里は、病人の隔離治療や環境の消毒をする一方、ネズミの駆除を徹底的に指示(ペスト発生地のネズミには、日本に存在しなかった「ケオプスネズミノミ」という種類のノミがみられ、これがペスト菌の運び屋と考えられました)。
もし、このノミがイエネズミから、野生のげっ歯類に広がったら、根絶はほぼ不可能となります。
果たして結果は?
ネズミの駆除作戦は効を奏し、1930年を最後に日本からペストはなくなりました。
発生から収束までの27年間で死者数は2,420人に抑えられたのです。
福沢の恩に報いるため無給で慶応医学部を創設
さてその後の北里ですが東大医学部に意地悪をされ、なんやかんやありまして「伝染病研究所」の所長を辞職します。
そして『私立北里研究所』を設立、様々な病気の血清療法を研究しました。
また、諭吉の恩に報いるため慶應義塾大学医学部を創設して、初代医学部長、付属病院長となりました。
ちなみに無給。
カッコ良すぎですよ、北里さん。

北里研究所本館(博物館明治村)/photo by
wikipediaより引用本当にどうでも良い話ですが、中世のペスト禍を本で読んだ当時小学生の私はすっかりビビっていました。
そんな折、父が近所にある『ベスト電器』に行こうと誘ってきます。
大泣きしながら「ペストになるから嫌ぁぁぁ」と拒否したのは、今となっては良き思い出です。
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文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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◆拙著『戦後国診察室2』をよろしくお願いします!
【参考】
ペスト/wikipedia
MSD(→link)
厚生労働省検疫所(→link)
栄研化学株式会社(→link)
厚生労働省(→link)
海外邦人医療基金(→link)
ペスト菌/wikipedia
北里大学(→link)
北海道立衛生研究所感染症センター(→link)
身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌(→link)
TERUMO(→link)