敦康親王

枕草子絵詞/wikipediaより引用

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定子の長男・敦康親王の不憫すぎる生涯 一条天皇の第一皇子は二十歳にして散る

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徐々に薄れてゆく存在感

病に苦しむ一条天皇敦康親王(あつやすしんのう)のことは気になっていたようです。

「立太子は無理にしても、どうにか身の立つように保証しておいてやりたい」と考えていたようで、今際の際まで皇太子・居貞親王に敦康親王のことを頼み込んでいます。

この辺は天皇も人の親であることが強く感じられますね。

ただし、このことも道長を通して居貞親王に伝えられているので、道長としても

「皇位を外孫のものにできて、敦康親王が問題を起こさなければ、それなりに尊ぶ」

という意思はあったのでしょう。

敦康親王も、皇位から遠ざかってしまえば、道長が恐れるような相手でもありません。

無駄に敵を作り、強い恨みを買って、生霊や怨霊の祟りにでもなったと貴族社会で噂されたら、面倒くさいですしね。

この寛弘八年からは、行成の日記である『権記』に敦康親王の名がほとんど登場しなくなります。

『権記』の後半は、散逸している部分も多く、今後、新たな発見でも見つかれば、敦康親王の評価が多少は変わってくるかもしれません。

大鏡』などではその人格を高く評価されており、天皇となるべき素質は持っていたと思われます。

それでも敦康親王は、権力欲を表に出さず、自邸で作文会や歌合などを催したり、大井川へ遊びに出かけたり、政治からは遠ざかって、風流の世界で貴族たちと付き合っていたようです。

私生活では、長和二年(1013年)12月10日に具平親王の次女を妻に迎えています。

この人は道長の嫡子・藤原頼通の妻である隆姫女王の妹であり、その縁からか敦康親王と頼通は長きに渡って親しい付き合いを続けました。

早いうちからこの縁談の話が出ていたのか、頼通が婚儀の支度を盛大に整えており、道長の日記『御堂関白記』には「甚だ過差(非常にぜいたくだ)」と書かれてしまっています。

この時点では頼通に子供がいませんでしたので、義妹を娘のように思って張り切ったのかもしれませんね。

その後は三条天皇と道長の間で政争が繰り広げられますが、やはり敦康親王の動向はわかりません。

次に敦康親王の記述が出てくるのは、三条天皇から後一条天皇へ皇位が移った後のことです。

 


早すぎる最期

長和五年(1016年)1月、道長の外孫である後一条天皇が即位。

新たな皇太子には後一条天皇の同母弟・式部卿敦明親王が立てられ、敦康親王はその後任として式部卿になりました。

式部卿とは、文官の人事と、その養成機関である大学寮を管轄する式部省の長官です。

国政においては特に重視され、四品以上の親王が務めることになっていて、異母弟の後釜ながら敦康親王の立場に配慮されたフシがあります。

再三になりますが、当時の貴族社会では母方の後ろ盾が全てです。

仮に道長が台頭していなくても、藤原定子から生まれた敦康親王が皇太子になるのは難しかったでしょう。

当時、同じような例は三条天皇の皇子・敦明親王も挙げられます。

彼の母は、三条天皇が皇太子だった頃から連れ添った藤原娍子でした。

しかし娍子は父と死別しており、有力な後ろ盾がおらず、それに加えて道長の孫皇子が二人もいたため、対抗しようがなかったのです。

三条天皇はそれでも譲位の条件として敦明親王を皇太子に立てるようゴリ押ししましたが、敦明親王本人がこれを辞退したことにより、道長から生活の保証を引き出しています。

そう考えると、敦康親王は皇太子にはなれなかったにせよ、

・出家に追い込まれず

・政争の種にもされず

・高い官職を与えられた

となるわけですから、周囲の人々が彼の立場を守ろうとしたと見ることもできるのかもしれません。

もちろん道長の気に障らない範囲で初めて成立する話ですし、ご本人の動きがイマイチよくわからないので、推測の域を出ません。

そのまま冷泉天皇のように穏やかに過ごし続ける道もあったでしょう。

しかし、敦康親王にはあまり時間が残されていませんでした。

敦康親王は式部卿になって2年後、寛仁二年(1018年)12月17日に亡くなってしまったのです。

まだ20歳。

『御堂関白記』には、敦康親王が亡くなる前後の記述はありません。

貴族の日記は日にちが飛ぶこともままあり、御堂関白記も例外ではありませんが、12月12~18日までの記述がきれいに飛んでいるのです。

道長が法事に全くかかわらなかったということはないと思われるので、ただ単に書く時間がなかったのか。あるいは意図的に避けたのか。

直前の12月9日、敦明親王に嫁いでいた道長の娘・寛子が儇子内親王を産んでいるので、産穢のため遠慮したか、死穢を避けたとも考えられますが……。

他には藤原実資の日記『小右記』にわずかながら当日の記載があり、

・敦康親王が12月17日の早朝に危篤になったため出家したこと

・その日のうちに亡くなったこと

がわかります。

全くの偶然ではありますが、

・敦康親王が生まれた日に道長の娘が入内し

・敦康親王が亡くなる直前に道長の孫娘が産まれる

ということになったわけで、なんとも数奇な運命を感じさせられますね。

道長は『御堂関白記』で以下のように記しています。

寛仁二年12月25日「敦康親王の遺骸を東三条第の南院に移した」

寛仁三年1月1日「楽が停められた。これは敦康親王の薨去を受けてのことだ」

寛仁三年1月24日「敦康親王の法事が法性寺で行われたということだ」

 


定子の血筋は途絶える

敦康親王の薨去後、残された妃は出家しました。

二人の間に生まれた一人娘・嫄子女王は、藤原頼通と隆姫女王が引き取り、後に後朱雀天皇(彰子の次男・後一条天皇の同母弟)のもとへ入内して中宮となります。

これは頼通が娘に恵まれなかったことが大きいと思われますが、敦康親王一家への同情もあったのかもしれません。

嫄子女王は幸いなことに後朱雀天皇から寵愛され、祐子内親王と禖子内親王に恵まれました。

しかし、二回目のお産後に命を落としています。

内親王は一部の例外を除いて未婚を通すならわしだったため、嫄子女王の産んだ二人も独身を貫き、定子の血はここで途絶えてしまうのです。

当時の皇族・貴族の多くが「母方の影響を強く受ける」というのは共通の事実ですが、敦康親王やその家族たちは特にその傾向がうかがえます。

藤原道隆の没後、瞬く間に凋落していった中関白家。

もう少しだけ、敦康親王が早く生まれていたら、藤原伊周が道長との政争に勝利し、藤原定子がもっと長生きできた可能性も十分に考えられます。

大河ドラマ『光る君へ』では、道隆や伊周が定子に向かって「皇子を産め!産め!産め!産め!」と迫り、視聴者から顰蹙を買っていましたが、彼らにとってはそれこそが権力を保ち、生きる術だったのでしょう。

なんとも不安定な貴族社会――敦康親王はその象徴と言えるかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
服藤早苗『藤原彰子 (人物叢書)』(→amazon
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇 (人物叢書)』(→amazon
黒板伸夫『藤原行成 (人物叢書 新装版)』(→amazon
国史大辞典

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