大進局と祥寿姫

源頼朝/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

女好きも大概にせい!大進局に子を産ませ兄の元嫁・祥寿姫を狙う頼朝

北条政子という妻がありながら、その目を盗んで妾を囲い、チャンスがあれば夜這いも仕掛ける――。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれた源頼朝の好色っぷり。

義時の妻となる比奈(姫の前)の寝所にまで押し掛けたのは、さすがに好色が過ぎるだろ……というドン引き展開でしたが、それでも史実の頼朝を誇張しているようには見えません。

ドラマでは、むしろカットされている。

本稿では、頼朝が想いを寄せていた祥寿姫(しょうじゅひめ)。

そして文治2年(1186年)2月26日に貞暁という子供を産ませていた大進局(だいしんのつぼね)について振り返ってみましょう。

 


亡き兄の元嫁狙ってラブレター

源頼朝が政子以外の、別の女を求めること――それは夫婦生活が安定し始めた頃から、顔を出し始めます。

治承4年(1180年)冬。

夫妻が鎌倉に居を定め、嫡男を妊娠出産するころ、頼朝は別宅に女を囲い始めたことが記録されています。

『鎌倉殿の13人』で江口のりこさんが演じて話題になった亀の前ですね。

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史実でも、北条政子が亀の前邸の破壊を命じたとされるこの騒動。

単なる夫婦喧嘩に留まらず、北条時政が一族を率いて伊豆まで戻るほどインパクトの大きな事態となりました。

ただし、ドラマでの頼朝好色話はそこまで。

実はこの騒動と同時期、上野国の新田義重という人物が頼朝に冷遇されています。

頼朝が勢いをつけたあと、鎌倉に入り、安達盛長の仲介を受けて帰参を果たしたのですが、どうにも頼朝が冷たい。

同じ河内源氏の一門で、甥にあたる足利義兼は覚えめでたいのに、なぜ?

義重には祥寿姫(しょうじゅひめ)という娘がいました。

彼女の夫は源義平です。

義平は源義朝の嫡男であり、【平治の乱】に敗れ、父と共に斬首とされていました。

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祥寿姫は、そんな夫の死後、実家に戻って菩提を弔う日々を送っていたのですが、この祥寿姫に対し、頼朝は「艶書」を送っていました。

伏見広綱を遣わし、要するにラブレターで口説いていたのですね。

これの何処が問題か?

祥寿姫の亡き夫・源義平とは、頼朝の異母兄。

つまり頼朝は、アニキの嫁さんを口説いてたんですね。

すでに死別しているからって良いはずもなく、このころ政子は長男を産み、自身は亀の前とエンジョイしている最中でした。

一体なに考えてんだ! 勘弁してくれよ……。

と困り果てたのが新田義重です。

倫理観どうこうの前に北条政子が怖い。下手に仲をとり持ったりすれば、北条に睨まれかねない。

そこで祥寿姫を師六郎に嫁がせ、どうにか事なきを得ようとします。

しかし当の頼朝がブチ切れてしまった。

「は? なんなんだよ、新田義重! ノコノコ遅れて帰参したうえに、祥寿姫のことも断るとか、舐めてんのか!」

いやいや……繰り返し申し上げます。

相手は亡き兄の元嫁です。

こんな行為を亀の前騒動とほぼ同時期にしているのが、頼朝という男なのでした。

 


女房は全部オレのもの

頼朝は懲りません。

女房の一人であった大進局に手をつけ、文治元年(1185年)に懐妊させました。

弁解にもならないことですが、一応、当時の状況を説明しておきましょう。

平安王朝では、女房のような身分の低い女性に主人が手をつけることは当然の権利でした。

源氏物語』では、あの絶世の美男である光源氏も歳には勝てず、紫の上の死と女三の宮出家後は、女房だけと関係を結ぶようになっています。

そんな西国の価値観を身につけた頼朝からすれば、大進局とのアバンチュールもちょっと戯れた程度かもしれません。

しかし、政子は東国の女です。

「この女を追い出せ!」

そう怒り、大進局を大江景遠の邸に預けさせています。

政子の言い分も考えてみましょう。

もともと東国武士は一夫一妻制です。

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複数の妻がいる者は、先妻と死別したり離婚したからであって、同時に多数という例はあまり見かけません。

政子には西国ロマンスのような思考はなく、そもそも父から反対されようとも頼朝との恋を貫いた、情熱の持ち主でもありますから、夫の浮気など許せなかったのでしょう。

実は大進局も、単なる使いっ走りの女房でもありません。

その父は、源為義が母方の祖父とされる藤原朝宗、すなわち常陸入道念西です。そして朝宗の母は、頼朝のおばにあたりました。

つまり源氏の血縁がいくつかあり、大進局を基点に結束を固められる可能性もある――賢い政子がそう判断し、徹底して排除したとしても何らおかしくありません。

頼朝の遊び方は、東国ではタブーにあたることばかりでした。

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