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【愚管抄】
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他ならぬ仏教伝来をどう捉えた?
時代が下って社会が複雑化すると、皇室だけでは世の中のことをやりきれなくなってきました。
それと前後して、大陸から仏教が伝わります。
慈円はこれを「王法だけでは間に合わなくなってきたので、天の計らいで仏法が伝わり、皇室と日本の守護をさせようとした」と考えました。
また、「桓武天皇が平安京に都を移してから、皇位継承が父から子、あるいは兄から弟へスムーズになされるようになった。皇后も藤原氏から出ることが定着し、政治も安定してめでたい」なんてことも書いています。
そしてそうなったのは、「伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)をはじめとした僧侶たちが大陸に渡って、我が国に尊い教えをもたらしたからだ」としています。
この辺は僧侶らしい考えですね。
藤原氏というと、「娘を入内させて外孫である次代以降の天皇の後ろ盾になり、権力を握った」という点から、どうにも黒いイメージが拭えませんよね。
しかし、慈円はそう悪いこととはとらえず、次のように記しています。
「人間は皆母親から生まれてくるのだから、女性が権力を持つことは間違いではない。
ただし、末法の世においてはそれは好ましくないので、代わって女性の実家の男性が権力を持てばいい。
これなら母への孝養と”女人によって日の本の国が完成する”という考えを両立させることができる」
天照大神が多くの場合“女神”とされるのも、古代に女帝が多かったのも、こういう考えが日本人全体にうっすらと存在していたからなのかもしれませんね。
そもそもは「武士の世」を記すためだった
藤原氏も子々孫々栄えて分裂し、やがて藤原道長に収束します。
ところが、その外戚関係もしばらくして絶たれ、院政と院の近臣によって政治が行われることになりました。
さらにその後、保元の乱と平治の乱によって、かつて公家の下働きに近かった武士が政治的な役割を果たすようになっていきます。
慈円が愚管抄を記したのも、「武士の世」を記すためだったようです。
元々、彼は藤原忠通(通称・法性寺関白)の息子であり、武士に否定的な立場でもおかしくありません。
しかし、この新しい階層に拒絶を示さず、頼朝や武士の力を評価しました。
武士が軽んじられがちだったのは、当時の教養のなさや歴史が浅いことなども影響していましたが、【壇ノ浦の戦い】で三種の神器の一つ・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を取り戻せなかったから……という理由もこの時代にはありました。
慈円はそれすらポジティブに捉え、「草薙剣が失われたのは、これからは武士が草薙剣の代わりに朝廷とこの国を守ることになるという神意の現われである」とし、「だからこそ、朝廷は武士を憎まず、軽んぜず、制度の中に取り込むべき」という考えを記し、広めるために愚管抄を書いています。
これが広まっていたら、日本史は多少違う道を歩んでいたのかもしれませんね。
まあ、関係者が増えれば増えるほど、政治的・武力的な対立はややこしくなりがちですから、良くなっていたかはわかりませんが……。
朝廷と武家の間が親密であれば一番うまくいっていたと思われるのは、江戸幕府の各将軍と御台所の間に嫡男が多く生まれていただろう、というところですかね。
あくまで俗説ですが、江戸城の大奥では、朝廷の干渉を避けるために、皇室や公家出身の御台所が子供を授からないようにアレコレしていた……なんて話があるくらいです。
古代史のおさらい・入門に最適な本
愚管抄の最後は、承久元年(1219年)に左大臣・九条道家の息子である三寅(藤原頼経)が将軍として鎌倉に下った時点です。
慈円はこれを「公家が武家に入ることにより、王法が復活する兆し」として、明るい未来を予感しています。
結果は……うん(´・ω・`)
この本が世に出回り、朝廷と武家がうまくいくことを望んでいたようですが、あまり写本が出回らなかったことなどが原因で広まりませんでした。
せっかく仮名で書いているんですけれどね。
それならそれで、まずは実家であり、公家の親玉ともいえる藤原氏御堂流にこの本と考えを浸透させるべきだったように思えます。
ただし、身分が高くなるほど頭も固くなりがちですから、それはそれで難しかったかもしれません。
慈円ほどの身分と立場になると、辻説法のように衆生へ直接語りかけることも難しかったでしょうしね。
何はともあれ、少々回りくどかったり宗教色がやや濃いことを除けば、
【愚管抄は古代史のおさらい・入門に最適な本】
と言えるのではないでしょうか。
受験生だけでなく「戦国も幕末も飽きた! 他の時代のことも知りたい!」という大人の方にもオススメです。
もちろん古文原文ではキツいので、現代語訳版『愚管抄 全現代語訳 (講談社学術文庫)』(→amazon)がありますよ。
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長月 七紀・記
(※1)宇佐八幡神託事件……女帝・称徳天皇がお気に入りの僧侶・道鏡に入れ込みすぎて起きた一騒動。称徳天皇におもねるため、宇佐八幡宮の関係者が「道鏡を皇位につけよ」という偽の神託を伝えたことに始まる。
称徳天皇は訝しんで別の人を宇佐八幡宮に派遣したが、真逆の神託が下され、称徳天皇が逆ギレして使者に汚い名前を名乗らせて貶めた。
称徳天皇の崩御後、神託はなかったことになり、無事に別の皇族が皇位を継いで事なきを得た。
(※2)昌泰の変……菅原道真が左遷された事件。
菅原道真一家の出世を驚異に感じた藤原北家の藤原時平が、「道真は娘婿の斉世親王を皇位につけようとしている」と醍醐天皇に讒言し、太宰府へ一家まるごと左遷させた。
道真は左遷から二年後に病没。
それから数年後、時平や都に天変地異が相次いだため、「道真が怨霊となって祟っているのだ」と噂され、神として祀り鎮めたのが天満宮の始まり。
【参考】
国史大辞典「愚管抄」
大隅和雄『愚管抄 全現代語訳 (講談社学術文庫)』(→amazon)