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【安徳天皇】
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三種の神器の一つ・天叢雲剣も行方不明に
安徳天皇が落ち延びた伝説――。
多くは「落ち延びて静かに暮らし、若くして亡くなった」ことになっており、中には「出家の後、宋(中国)に渡って仏法を修め、帰国してから寺を開いた」とか「対馬の戦国大名・宗氏の先祖となった」など、なかなかダイナミックなものもあります。
おそらくは同時期に都から落ち延びてきた貴人の話が混ざっているのでしょう。
そして、安徳天皇自身に同情した人が多かったのだろうということもうかがえます。
そりゃ天皇とはいえ6歳の子供がとばっちりで水死したのでは、同情しないほうがおかしい話ですもんね。
一方、源氏のほうでも安徳天皇の水死は、三種の神器の一つ・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が行方不明になったことと合わせて問題になりました。
もっとも、このとき壇ノ浦に沈んだ剣は形代(レプリカみたいなもの)で、天叢雲剣の本体は今も熱田神宮(愛知県名古屋市)に現存しているという説もあります。

熱田神宮本宮
ヤマトタケルが東国征伐の際に使い、妻のミヤズヒメにとっては形見となったのは熱田神宮にあるほうで、安徳天皇とともに沈んだのは、それ以前に作られて皇居にあった形代だ……という説があるのです。
熱田神宮で実物を見ると目が潰れるといわれていますので、さすがの源頼朝も確かめようとはしなかったようですが。
頼朝は安徳天皇を気にかけていた
源頼朝自身が亡くなるのは、安徳天皇の死から14年後のことです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
普通に考えれば十分な期間が空いていて呪いや祟りの類は関係なさそうですが、一方で「亡くなる間際に清盛や安徳天皇の霊に怯えているかのような言動があった」ために「とり殺されたのだ」とする説もあります。
祟りの真偽の程はさておき、頼朝が安徳天皇入水を悔やんでいた節があったからこそ、このような話ができたのではないでしょうか。
頼朝は壇ノ浦の戦いが起こる2ヶ月ほど前に「安徳天皇や建礼門院に危害を加えるな」という命令も出したことがあります。
源氏も皇室から分かれた家ですし、頼朝自身宮中に出入りしていたこともあるので、皇族への畏敬は多少なりともあったでしょう。
その後悔が、亡霊という形で見えたのかもしれませんね。
女帝説を唱える人も
上記の通り、安徳天皇は信心深く聡明な少年だったようなので、化けて出てきそうなタイプではありません。
三大怨霊の皆さん(菅原道真・平将門・崇徳天皇)と比べるとね……。
京都市東山区泉涌寺(せんにゅうじ)所蔵の安徳天皇の肖像は、玩具で遊んでいるらしき年相応の姿が描かれています。
この姿が女の子のように見えなくもないことから、女帝説を唱える人もいるようです。
まぁ、性別・年齢を問わず、戦乱に巻き込まれる事自体が悲しいことですけどね。
特に安徳天皇のような幼い子供が……となると、さらにこう、胸が詰まる話ですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
安徳天皇/Wikipedia
壇ノ浦の戦い/Wikipedia
御旅所/Wikipedia
Shimonoseki.TV(→link)
いつもNAVI(→link)
源頼朝/Wikipedia