こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【豊川稲荷】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
義元や信長らに続き大岡忠相も信奉
豊川稲荷では、開山(創始者)を東海義易(~1497年)とし、開基(たいてい中興の祖)を戦国武将の今川義元(1519~60年)としています。
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
続きを見る
駿河の大名・今川義元が、遠江や三河を侵攻して支配したことは知られていますが、豊川稲荷周辺はもともと今川氏の飛び地でした(他には那古野城などが有名)。
三河への侵攻前から、このエリアには資金投入するなどして整備し、三河侵攻の橋頭堡とした一面もあります。
山門は、後世でかなり手が入っていると見られますが、今川義元寄進の門とされています。
さらに一世紀ほど時が進み、町奉行で有名な大岡越前守忠相(1677~1751年)が信奉したのが豊川稲荷(枳尼真天)とされています。
歴史上の大岡忠相は町奉行にとどまらず、最終的に三河国額田郡西大平(愛知県岡崎市)で1万石の大名となりました。
将軍・徳川吉宗の側近で、6000石ほどの中級旗本だったのが、寺社奉行などを経て大出世を遂げたのです。
かような異例の出世を遂げたため庶民に人気が出て、「大岡裁き」などの逸話が創作されました。
また、東京都港区元赤坂一丁目に、豊川稲荷(豊川閣荼枳尼真天堂)があります。
大岡忠相が藩祖となった三河・西大平藩の下屋敷に、死後70年以上たった文政11年(1828年)に、豊川稲荷の分霊を勧請したものです。
文政年間には、大岡忠相は「大岡裁き」として江戸の人気ものになっていました。
この大岡が信仰したのが稲荷さま。
稲荷は基本的に神社系であり、また「居成り」に通じることから、江戸の町では武士、庶民を問わず屋敷を守る神として信奉されました。
大岡忠相の場合も、在命中に「豊川稲荷の稲荷」に限定して信奉していたかというと、はっきりしません。
むしろ、三河の稲荷=豊川稲荷が結びつけられたと考えるのが自然でしょう。
実際に、西大平藩は西三河の岡崎市、豊川稲荷は東三河と、地域が異なります。
が、江戸時代の庶民にとっては、同じ三河、さらに西大平藩は1万石の小藩ですから、藩祖の人気に乗じて、大岡は豊川稲荷の稲荷を信奉していたとの物語を流布した可能性もありそうです。
江戸時代の信仰のありかたを考える上でおもしろいテーマですが、やぼな推測でもありますので、このあたりでやめておきましょう。
なお、東京の豊川稲荷は、明治時代に現在地への移転に伴って、西大平藩から愛知の豊川稲荷の直轄管理となりました。
4,000円の祈祷料でおいなりさんや精進料理
豊川稲荷では、大晦日から元旦にかけて口喧嘩をしながら参籠堂に籠ることで豊作を祈る「喧嘩参籠」という行事が行われます。
元旦からの初詣もいいですが、大晦日から参拝すると、おもしろい行事が見られるかもしれません。
また、ほかの寺社と同様にご祈祷をうけることもでき、祈祷料を4000円以上収めると、食事がついてきます。
あまり大々的にPRしていませんが、大きな畳部屋で、おいなりさんを含む熱々の精進料理が食べられるので、かなりのオススメ!
いずれにせよ豊川稲荷の周辺の道路は非常に狭い上、駐車場も有料無料含めて多くありません。
つまりは公共交通機関での移動がベスト。
名古屋からですと名鉄が定番ですが、ライバルのJRは新幹線こだまをつかって豊橋駅まで行く、かなり割引率の良い往復チケットを販売しています(在来線のみの往復きっぷもあり)。
新幹線の通常料金より最大2,000円以上も安くなります(→link)。
【参考】
豊川稲荷公式サイト(→link)