関ヶ原の戦いを描いた関ヶ原合戦屏風

関ヶ原の戦いを描いた関ヶ原合戦屏風/wikipediaより引用

日本史 今日は何の日?

日本史 今日は何の日?9月15日は関ヶ原の戦いが勃発 一体どんな戦いだった?

※本連載は、過去の出来事を一日早い日付で取り上げて参ります

日本の歴史上、9月15日には何が起きていたか?

何と言ってもこの日の注目は慶長5年9月15日に勃発した関ヶ原の戦いでしょう。

新暦では1600年10月21日となり、人によっては違和感があるかもしれませんが、味わい深い元号表記(今回ですと慶長)を重視しまして、今後このまま進めさせてください。

んで、関ヶ原の戦いとはどんな戦いだったのか?

一般的には、美濃国関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ヶ原町)に徳川家康石田三成(名目上の大将は毛利輝元)らの率いる東西20万以上もの大軍が集結し、わずか一日で東軍が勝った――。

そんなイメージが強いため、戦いは関ヶ原だけで起きていたようにも錯覚してしまうかもしれません。

しかし実際は違います。

北は東北から南は九州まで、つまりは日本全国が東西の陣営に分かれて鎬を削っていた、それが関ヶ原の戦いの総括といえるでしょう。

当然、合戦の期間も9月15日に限定されたものではありません。

例えば近江では、東軍として立ち上がった京極高次と、西軍の立花宗茂&小早川秀包が9月7日から大津城の戦いを繰り広げておりますし、東北では9月8日から慶長出羽合戦が勃発。

九州でも黒田官兵衛大友義統と石垣原の戦いでぶつかり合っています。

結果、敗れた西軍の武将たちは斬首や改易、勝った東軍がその領土を獲得し、戦乱の世に終わりを告げていくようになります。

実際に、どの武将がどれだけ領地を増やしたのか?

全国でどんな戦いがあったのか?

その詳細は以下の記事に譲りまして、

関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いは家康vs三成の本戦だけでなく全国各地で合戦が勃発【総まとめ更新】

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本記事の趣旨である9月15日に起きた他の事例も見て参りましょう。

 

お好きな項目に飛べる目次

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日本史 9月15日に起きたこと

◆推古21年9月15日(613年11月2日)聖徳太子が『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』を著す

→鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』を注釈した書で日本仏教の出発点ともされる

聖徳太子の肖像画

聖徳太子/wikipediaより引用

 

◆保延6年9月15日(1140年10月27日)鳥羽僧正覚猷の命日

→鳥獣戯画の作者

鳥羽僧正覚猷の肖像画

鳥羽僧正覚猷/wikipediaより引用

 

◆文治5年(1189年10月26日)快慶が興福寺弥勒菩薩像(現ボストン美術館所蔵)を製作

→いったいどんな像なのか?と興味を引かれた方は東京国立博物館公式サイトの記事をご覧ください

広隆寺弥勒菩薩像の画像

こちらは国宝でお馴染みの広隆寺弥勒菩薩像/wikipediaより引用

 

◆嘉元3年(1305年10月4日)亀山法皇が崩御

亀山天皇(法皇)の肖像画

亀山天皇(法皇)/wikipediaより引用

 

◆永禄7年9月15日(1564年10月29日)新野左馬助親矩が討死

新野左馬助親矩の肖像画

新野左馬助親矩の版画photo by 戦国未来

→今川一族の武将であり、井伊家の恩人(井伊直政の命を救う)。

引馬城の飯尾氏を討つ討伐軍の大将として出陣し、永禄7年9月15日(1564年10月29日)に「天間橋」で討たれた。

新野左馬助親矩の肖像画
今川から井伊へ目付家老として送り込まれた新野左馬助親矩 最終的に井伊を救う

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◆天正7年(1579年10月5日)松平信康切腹

松平信康の肖像画

松平信康/wikipediaより引用

→武田への裏切りを画策し信長の怒りを買った、あるいは父である徳川家康と対立した、など今なおナゾ多きその最期。考察記事は以下のページへどうぞ。

松平信康
なぜ家康の長男・松平信康は自害へ追い込まれたのか? 謎多き諸説を考察

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◆慶長5年9月15日(1600年10月21日)関ヶ原の戦いが勃発

関ヶ原の戦いを描いた関ヶ原合戦屏風

関ヶ原の戦いを描いた関ヶ原合戦屏風/wikipediaより引用

冒頭でも記しましたように、この戦いは全国規模で見るのが面白い――弊サイトでも複数の関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。

慶長出羽合戦
慶長出羽合戦(北の関ヶ原)では上杉・最上・伊達の東西両軍が激突!その結果は?

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岐阜城の戦い
東軍・西軍の有名武将が集った「岐阜城の戦い」はド派手な関ヶ原前哨戦だった

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杭瀬川の戦い
実は西軍の勝利だった関ヶ原前哨戦「杭瀬川の戦い」家康も三成もガクブルの連続だ

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米野の戦い
米野の戦いは関ヶ原の前哨戦~なぜ秀信(三法師)は城から打って出たのか?

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なお、この日が命日となった著名な戦国武将は以下の通りです。

大谷吉継

島左近

・戸田勝成

・島津豊久

平塚為広

平塚為広
関ヶ原に出現した「第二の裏切り者」対峙した平塚為広の奮戦ぶりに泣ける

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◆慶長18年9月15日(1613年10月28日)伊達政宗の家臣・支倉常長慶長遣欧使節が陸奥の月浦から出港。

慶長遣欧使節

復元された遣欧船サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長/wikipediaより引用

→帰国時にはキリスト教が禁じられていて、支倉常長さん、可哀想すぎません?

慶長遣欧使節
なぜ政宗は慶長遣欧使節を派遣した? キリスト教禁止後に帰国した常長の立場は?

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◆嘉永6年9月15日(1853年10月17日)幕府が約250年ぶりに大船建造を解禁

小栗忠順の写真

小栗忠順/wikipediaより引用

→幕府の技術革新を進めていた小栗忠順にとっては非常に重要な政策ゆえに、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では注目されそうです

横須賀海軍工廠
横須賀海軍工廠は小栗や栗本など幕臣の提言から始まった~呉や舞鶴の工廠は?

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【更新記録】
2025年9月14日:初版公開


参考文献

  • 日本史「今日は何の日」事典(吉川弘文館, 2021年, ISBN: 978-4642083911)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(戦争の日本史17, 吉川弘文館, 2016年, ISBN: 978-4642066365)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか』(文春新書1073, 文藝春秋, 2016年, ISBN: 978-4166610731)
    版元ドットコム: 文藝春秋
    Amazon: 商品ページ

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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