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【『べらぼう』感想あらすじレビュー第3回千客万来『一目千本』】
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蠢く暗い情念と陰謀
重三郎が、赤い格子の前で花の井と話しています。
なんでも長谷川平蔵は親の遺産を食い潰し、もう来られなくなったとか。ま、そうなりますわな。
重三郎はいつか50両を返さないといけないというものの、花の井は本当のことを知ればむしろ返さないのではないかと言います。
50両で河岸の女郎を救うなんて、粋の極みだと。重三郎も「確かにそりゃ大通だ」と返します。
よかったな、平蔵。
かくして吉原に明るい光が差し込みだす一方、その裏側では暗い情念が動いていると稲荷ナビ。
どうやら鱗形屋が、もう重三郎に嫉妬しているようで。
さらに不気味な光景が広がります。
田安治察が咳き込んでいます。
その姿に、傀儡を操る何者かも姿が、お囃子にのせて映し出される。
傀儡を操る糸がブツリと切れると、操っていた一橋治済がこう言います。
「おや……糸が切れたか」
そして治察は、カッと目を見開き、胸を掻きむしったまま、息絶えているのでした。
MVP:駿河屋市右衛門
何度でも繰り返しますが、江戸時代中期には職業選択の自由なんざありません。
親の家業を継ぐしかない。まるで適性がないのに継がねばならないし、御三卿のような名門に生まれたら生まれたで、才能を発揮する機会がありません。
これが隣の清や朝鮮だと、男性ならば「科挙」という一発逆転システムがあります。
受験勉強をがんばれば人生が変わる。そう志を燃やすことはできるけれども、日本はそうではありません。
そこにはメリットとデメリットがあるといえる。
清や朝鮮ではまず立身出世を目指して学ぶものの、日本は好きだから、興味があるから、得意だからと、学び、特技を習得することにつながります。
ここにピタッとハマった江戸期の人物は、いきいきと才能を発揮させることができたわけです。
重三郎は本作りを通して、その才能がハマる瞬間を味わいました。
何かが変わる。3回目でそれが見えてきたわけです。
しかし、そうはいっても、重三郎は吉原もの。女なら女郎、男なら関連産業しかできない宿命があります。
その宿命そのものとして駿河屋の親父殿は立ち塞がるわけです。
体罰も厳しいけれども、そこには当時ならではの歪んだ愛もある。
どうでもよければそもそも追い出すのに、そうはできない――そんな身分制度の象徴のような振る舞いをするわけです。
結果的に縛ってはいる。しかし、根底には愛がある。実に難しい話ではあります。
あの呑気な次郎兵衛も、父の仕事を継ぐしかありません。
吉原の親父たちの中には、どうにも忘八に向いていないのに継がねばならず、経営を任せ切ってしまう二代目以降もいたそうで。
駿河屋周辺は、忘八だって辛い事情があるんだと察することができ、うまい描き方だと思います。
そして駿河屋を通して、御三卿の宿命も見えてくる。
そこから抜け出す田沼意次と重三郎の特殊性もみえてきます。
序盤でよく構図をきちんと描いていると思います。
総評
先日終わりました大学入試共通テストでは「歴史総合」が注目を集めました。
日本史と世界史の枠を超えた出題に、頭を抱えた受験生も多いとか。
受験生も大変だけれども、我々の世代も歴史総合対応待ったなし――昨年と今年の大河を見ていると、そう痛感させられます。
吉原の女郎に対する搾取が問題視されますが、実はそれだけでもなく、前回あんなに魅力的だった平賀源内の暗黒面がチラリと見えました。
意次の命を受ける源内の目線からは、鉱山で酷使される炭鉱夫の苦境は見えていないでしょう。労働条件の改善も考えたりしないでしょう。
目に映るのは、どっさどっさと儲けることばかり。それが国益に叶うとなれば、それも致し方なしだと納得してしまう。
田沼意次にしても、田安賢丸を気遣うようで、彼を怒らせる養子について話を進めてしまう。
重三郎ばかりがアンチから過剰に責められているように私には思えますが、実は「誰もが別の誰かを抑圧しつつ生きる」ようになっています。
考えようによっては、それが近代への進歩とも言えるかもしれません。
こんな意見を見かけました。
「『おんな城主 直虎』と同じ脚本家だから期待しているけれど、人身売買が根底にあるドラマは楽しめない」
いや、実は『直虎』でも、主人公が人身売買に言及していました。
戦国時代は、戦場で敵の領民を捕え、売り物にすることは往々にしてあり、そのシーンまでは描かなかっただけの話です。
あるいはこんな意見も。
「才能ある女性がなんとかして生きる道を模索する。そんな『光る君へ』はよかったけれど」
いや、あのドラマでまひろが手にしていた紙は、越前で領民が寒い中作り上げたもので、それを藤原道長なんかは我が物顔で貢がれ、自在に使っていたものです。
そういう民の血と汗でできた紙で自己実現をしていた。
民の苦労そっちのけで政治工作のために文学を描いていた……そうまとめると十分どす黒いのではありませんか?
なぜ権力者には甘い見方をするのでしょうか?
摂関政治の私物化は政治停滞を招き、あまりに弊害が大きいものでした。
大河がキラキラコーティングをするのは常であり、私は『いだてん』で実質過労死の人見絹枝がそのへんを誤魔化しているあたり嫌だなぁとか、『青天を衝け』で渋沢栄一のレオポルド2世礼賛をそのまんま明るく流すとか、その度イライラしていました。
そしてこうしたことを指摘すると、かえってファンから怒られますよね。
ドラマとして楽しんでいるのになんなんだ?と。
こうした一連の反応を見ていると、ならば隠蔽したもん勝ちなのか?と気分が暗くなってきます。
悪い側面について描くという点で、今年は誠実でしょう。
第1回から重三郎は「吉原に好んでくる女なんていねえ」と叫んでいたし、今回だって梅毒の症状が出ている女郎が映っていたし。
幕末作品では、遺体損壊してはしゃいでいる維新志士なんて映しませんよね?
どうして今年ばかり?
素直に過去の悪いところを描いたから?
じゃあ隠蔽が正解ってこと?
そうぐるぐる考えてしまう。
で、こんな結論にたどり着きました。
とうの昔に受験を終えた大人こそ、「歴史総合」目線で歴史を見ていかねえといけないのだな、と。
今回は、吉原ものとして生まれた重三郎の晴れやかな顔を見ただけでも、モヤモヤは吹き飛んだ気がします。
書き残す重要性も、改めて思い出します。
吉原の女郎の苦労が、鉱山で死んでいった連中より世に知られているのはなぜか?
それは誰かが記録に残したからです。
このままではいけねえと思って残した先人がいるのです。
そういう先人がいればこそ残っているものを再現するドラマを、現代人がスマホ片手にポチポチ批判するのはどういうことなのか。
先人の積み重ねで身分制度から打破され、職業選択の自由もある現代人が、それすらなかった重三郎を「ひとでなしの女衒」と叩くのはなんなのでしょう。
目の前の飢えた女郎をなんとかしてえ。
そう思い、奔走する重三郎と、「解決したと言っても根本的な人権侵害は放置しているよね」と、言ってしまう現代人と、どちらが人として優しい心があるんでしょう。
そんなもん、なんつうか「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」論法じゃねえですか。
「吉原女郎がかわいそうなら、人権思想を発揮し、打破すればいいじゃない。それができない大河ドラマなんて打ち切り相応よ」
これはあまりに暴論じゃねえですか。
言っていることはご大層でも、目の前の人を助ける慈悲に欠けるっつーか……物事の根本的解決に役立たないというか。
ネットでは人助けをするNPOに「俺ならもっとうまくできる」とリプライをつける「人助け軍師」みたいな人もしばしばいますよね。
人を助けたいなら、そういう諸葛亮じみた態度よりも、もっとできることがあるんじゃないかと思ってしまいます。
私は、今年の大河ドラマは、むしろ偉い!と感じています。
このドラマを見て、女郎の慰霊碑に花をたむけ、線香を供える人もいることでしょう。
そういうのが慰霊であり、人としての優しさでは?
中にはこんなことを仰る方もいます。
「NHKはまだ大河ドラマを打ち切りにしないのか?」
ハッシュタグまで作ってノリノリの様子で……そうやって投稿すれば自分の正義感がスッとして気持ちがいいのかもしれませんけど、それって言論弾圧ですよね。
今後、松平定信の表現弾圧により、自殺する戯作者も登場します。
そのとき「吉原で儲けた連中だ、自業自得だ!」と快哉を叫ぶのでしょうか? それが満願成就でしょうか?
表現の不当な弾圧は、どんな目的であろうと私は反対します。
それに大河ドラマだって妙な横槍が入ったと思えることはありました。
そういうことを一切合財無視して打ち切りを望むとはどういうことなのでしょう。
平賀源内の「序」はルッキズムなのか?
先週、SNSでは平賀源内の「序」はルッキズムだという話題が燃え盛っていました。
発言者は、ご自身で何をしたのか理解しているのかどうか。
「ルッキズム」というのは、本来、容姿と関係ない責務の上で、過剰に容姿で判断されることを指すのだと思います。
歴史的な事例でいえば、イケメンだと評価が異常に高くなった、中国の後漢魏晋時代が該当することでしょう。
男性官僚までもルックスをいちいち評価される大変な時代でした。
『世説新語』なんて、ルッキズムがあまりにひどい話がどっさり出てきます。
日本の中世も大変です。
それこそ『光る君へ』で描かれた『源氏物語』の末摘花なんて、読んでいてうんざりさせられるほどひどいものがある。
吉原の場合、そういう「ルッキズム」ではなく「人身売買」が問題の本質ではありませんか?
人を商品として売り買いし、ましてや性的な奉仕が前提となると、容姿は当然のことながら価値としてついてまわります。
そういう人間を商品化することが問題なのであって、それを「ルッキズム」というのは問題の本質を矮小化しているとしか思えません。
「吉原の女はマッチングアプリと違って拒否権ないんだよ」といった意見もあります。
書いている本人としては気の利いたことを言っているつもりなのだろうとは思いますが、人権侵害の矮小化に加担していることを自覚して欲しいと願うばかりです。
人間の苦労を知る上では、想像力も必要なのかと思います。
ルッキズム。マッチングアプリ。こうした言葉を使うと自分でも「あるある!」といえて言及しやすいのかもしれませんが、その結果として失われるものもある。
そして「ルッキズム」という、西洋由来の言葉で批判することも、悲しいことだと思いました。
吉原の無惨さを表す言葉なんて、「苦海」はじめ、それこそ先人が紡いできたものがあるではないですか。
それを使わずに「ルッキズム」というのは、どうしてなのでしょう?
幕末や明治初期のイギリス人が「日本はこんなに野蛮な国です」と語っていたことを思い出しました。
西洋こそ文明の証、東洋人はこんなに野蛮!
そう英語の概念で貶し、文明に酔いしれる――そんなことはハリー・パークスやイザベラ・バードで間に合っているんですよ。
今なら『SHOGUN』も連想させる世界観ですね。
そんな、なんちゃって西洋人目線で蛮族扱いされてもなぁ。
東アジアが、自分自身がいかにして文明を近代化させていったのか。
そんな「歴史総合」目線で広まっていく世界を期待したのに、こうなってしまうなんて、なんだか悲しくて仕方ありません。
そもそもこういう批判は、後に何も残らない。ペンペン草すら往々にして生えねえ。
連想したのは、中国での『水滸伝』論争です。
毛沢東は『水滸伝』が大好きでして。そんな彼が嫌いな百八星を、彼は槍玉にあげて攻撃し出す。
で、それを忖度した研究者が「この英雄はブルジョワだ」とかなんとか真面目に論文を書く。論争になる。
でも、そんな『水滸伝』の世界を、ブルジョワという概念もない、西洋由来の思想でもって叩いても意味がないんです。
今にして思うと、もっと他にやるべきことはあったんじゃないかと思ってしまいますが、当人たちは大真面目だったんでしょうね。
で、結果的に『水滸伝』研究や理解に何か意味があったかと思うと、全く意味がない。
要するに当時の人々は、ポジショントーク、ウケ狙い、忖度のために議論をしていただけであって、本当に世の中を良くしたいといった思いはないと思うんです。
平賀源内ルッキズム論争をチラッとみながら私が連想したのは、そんな虚無への供物じみた『水滸伝』ブルジョワ論争です。
まあ、今も忖度でTiktokが停止されて大騒ぎしたり、人間なんてそんなもんかもしれませんけど。
それにしたって、時間と労力は実りある論争に使いたいものです。
今後、田沼政治の蝦夷地政策、日本史に残るフェミニストといえる只野真葛が登場するか、などなど、期待している要素はたくさんあるのですが、果たしてどうなるんでしょう。
楽しい気持ちでドラマは見たいけれど、ここは江戸中期らしく「先憂後楽」しておきます。
先に憂慮し、それが杞憂とわかったら心の底から笑い楽しみたい。そうなることを願うばかりです。
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