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田沼意次/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

田沼意次は賄賂政治家というより優秀な経済人!? 現代になって評価の見直し進む

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一度イメージが作られてしまうと、変えるのはなかなか難しいものです。
織田信長をはじめ、歴史上でもよくある話ですよね。特に有名な小説やドラマ、マンガで描かれたイメージそのまま……という方は、歴史好きでなくても多いでしょう。
今回はその中から、評価が変わりつつあるあの老中のお話です。

享保四年(1719年)7月27日は、田沼意次が誕生した日です。

日本史の中では記憶に残りやすい特徴を持っているためか、名前が出ると「ああ、賄賂の人ね……」といった反応をされる方が多い気がしますね。
しかし、近年では再評価の動きが進んでいる人物の一人でもあります。
今回は彼の一生をざっくりと見ていきましょう。

 

吉宗に見出され、家重の代で大出世

意次の父は、紀州藩士から旗本になった人でした。
徳川吉宗が紀州藩主になる前に側近として見出され、吉宗が八代将軍になったときに江戸にお供して旗本になっています。

吉宗はそうした紀州時代からの家臣を、自分と息子の側近に多く取り立てていました。
性分や得意分野がわかっているから、という理由もあったでしょうが、先代までの権力者をそのままのさばらせておくと、いずれ守旧派と紀州派で分裂する恐れがあった……というのも大きかったでしょうね。

その一例として、六代家宣・七代家継の時代に老中格として権勢を振るっていた、間部詮房はものの見事に左遷・減封されています。

意次は次代将軍となる徳川家重の小姓として仕え始め、16歳で父から600石を受け継ぎ、武士としてのデビューを果たしました。
そして延享二年(1745年)に家重が将軍に就いたことから、本丸で仕えるようになります。

長年の忠義が認められてか、寛延元年(1748年)には1400石を加増され、以降少しずつ加増されていきました。

また、宝暦八年(1758年)の美濃郡上藩で起きた郡上(ぐじょう)一揆に関する裁判を意次に担当させるため、1万石の大名になっています。
この石高は大名と呼べるギリギリのラインですが、ある程度の家格や領国がないと、こういった裁判ではナメられるので、急ごしらえでも建前は重要だったのです。

特に郡上一揆の場合、年貢を巡る藩vs農民の対立がこじれにこじれ、農民たちが江戸までやってきて幕府に直接訴えるまでに至っていたので、裁く者の立場や人柄は慎重に選ぶ必要がありました。
あまりにも話がややこしいので今回は割愛しますが、郡上一揆に対する家重の視点はなかなかに鋭く、彼も将軍としての能力をきちんと持っていたことがうかがえて面白いですよ。

徳川家重/Wikipediaより引用

 

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江戸城で政務に携わり、地元の内政も指示を出し

おそらく、徳川家重の下で働く意次の姿を、十代将軍となる家治も見ていたのでしょう。

宝暦十一年(1761年)に家重が亡くなった後も、家治によって昇進と加増が続けられました。
明和四年(1767年)には将軍の側近である側用人となり、またまた5000石加増されると官位も進み、2万石の相良城(現・静岡県牧之原市)の主となりました。

意次自身はずっと江戸城にいたため、城の工事や国元のことは全て家臣に任せています。
ただし、城下町や街道・港の整備や、瓦屋根を推し進めて火事対策にするため助成金を出したり、インフラと公共の福祉に尽力するよう指示をしていました。

この辺、デキる上司って感じですよね。

また、郡上一揆の裁判を担当した経験から、意次は「年貢を増やすだけでは経済は改善しない」と思っていたため、「年貢を増やすのはやめろ」と家中に戒めていました。
このため百姓は喜び、藩が奨励した養蚕や製塩業も成功を収め、食糧備蓄もできていたといいます。
由緒正しい血筋を持っていたり、お国入りしてもうまくいかない大名が珍しくない中、意次の施策は正しかったといえるでしょう。

 

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600石から57,000石の大名に! さらには老中に就任

そのあたりが評価されたものか、安永元年(1772年)には、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、さらに老中を兼任することになりました。

元は600石の旗本であること、側用人から老中になった初めての例であること、どちらも稀に見る昇進ぶり。
意次は、おそらく相良での成功を幕政に活かそうとしたのでしょう。
悪化し続ける幕府の財布事情を改善するため、商業を重視した政策を採り始めました。

内容は大きく分けて
①「新たな徴税対象の創出」
②「土地開発による第一次産業の奨励」
の2本です。

「農民だけに増税すると一揆が起きやすくなるのならば、別のところから税を取ろう」という、実に合理的な考えでした。

前者①の例は、株仲間の結成・銅座などの専売制の実施により、商人に特権を与える代わりに税金を取ることなどです。
後者②は各地の鉱山・蝦夷地などの開発計画や印旛沼の干拓を行い、田畑や坑道を増やして生産量を増やそう、というものでした。

他には、俵物(※)などの専売による外国との貿易の拡大なども考えていたようです。
当時の交易相手は清とオランダでしたが、意次はロシアとの交易も計画していたとか。実に壮大です。

※いりなまこ・干しアワビ・フカヒレなどの海産物の乾物のこと。中国料理の高級食材が多く、俵に詰めて清へ輸出されていたので「俵物」と呼ばれた。

 

経済環境がよくなる一方、世間でカネが重視されるようになり……

こうして幕府の収入源が増えたため、財政は良くなり始めます。

上の資金繰りが良くなれば下の金回りも良くなり、町人文化の発展にも繋がります。
やった、これで経済万々歳! 「田沼ミクス」最高じゃん! とはなりませんでした。

幕府が税金を重視し始めたことに対し、庶民や役人の一部は「何だ、家柄やコネがなくても金でなんとかできるんじゃん」と思い始めたのです。現代でしたら、それで万事OK、社会としては健全化が進んでるじゃんとなるかもしれませんが、当時は「金は汚いもの」という価値観も強かったために、えらい変わりようです。

貨幣経済の重視が、贈賄・収賄の横行へと繋がり、こうした意次の時代を従来の歴史授業などでは
「賄賂第一の悪い時代だった!」
と評することが多かったのでした。

しかし、です。当時の老中首座・松平武元なども意次の政策には協力しておりました。要は、意次一人が各所に賄賂を贈るように強いた極悪人だったわけでもありませんし、景気が悪化し続けるよりはいいですよね。
そもそも、賄賂は受け取るほうだけでなく贈るほうも悪いですし。

意次の不幸は、こうして評判が悪化する中で、明和の大火・浅間山噴火・天明の飢饉というキツい災害が続いたことでした。
同時に印旛沼の干拓工事も失敗してしまい、にっちもさっちも行かなくなってしまいます。

 

都市圏へ流れ出る農民が増えて犯罪が増える

世の中が重商主義になると、その反動で農業が軽視され、農民の暮らしが厳しくなってしまったことも反田沼の動きへ繋がる一因でした。

誰だって、苦しい仕事よりは少しでも楽な仕事を選びたいワケで。
そうした元農民が都市圏に流れ込んでいったのですが、そう簡単に職が見つかるわけもなく、やがて物盗りなどの犯罪で生き延びようとする者が増えていきます。

結果として、地方でも都市部でも「田沼のせいで生活が苦しくなった!!」という怨嗟の声が高まってしまうのです。
さらに、意次が蘭学や実力主義を重んじたことにより、幕閣保守派の反発を買ってしまいました。

こうして意次の評判がダダ下がりする中、息子で若年寄を勤めていた田沼意知(おきとも)が、江戸城内で旗本・佐野政言(まさこと)に暗殺されるという事件が起きてしまいます。

動機がハッキリしなかったため、幕府は「乱心による犯行」として処理しましたが、田沼家に対する恨みが積もり積もっていた民衆は「自業自得」とみなしたようです。
公的には罪人とみなされたにもかかわらず、政言を「世直し大明神」と崇め、墓参りをする者も多かったとか。
当時、認められていた親や主君の「敵討ち」ではないので、江戸時代の基準でも政言は「殺人事件」のはずなんですけどねえ。日頃の印象の強さがよく出ています。

 

領地も財産も何もかも全て奪われ失意のうちに江戸で死亡

さらに意次にとって運の悪いことに、このタイミングで徳川家治が病気になってしまいました。

そこからはあっという間に老中を辞任させられ、領地を没収され、大坂の蔵屋敷と江戸屋敷の明け渡しまで命じられています。
私怨のかほりがぷんぷんしますが、おそらく既に家治は亡くなっていたか、政治に口を出せる状況ではなくなっていたのでしょう。

その後、蟄居と二回目の減封に加え、相良城は破却され、城内の金や米まで没収。
意次は失意の中、天明八年(1788年)に江戸で亡くなりました。

田沼家自体は、孫の龍助が陸奥1万石に減・転封の上で、何とか大名として存続しています。

さらに意次の死から35年後、四男の意正が陸奥下村藩(福島県福島市)から相良に復帰し、城跡に陣屋(屋敷)を建てて政庁としていました。
彼は若年寄なども務めており、一応復権した……ことになりますかね。

明治元年(1868年)に意正の孫・意尊が上総小久保藩(現・千葉県富津市)に移されるまで、田沼家は相良にいたようです。

明治維新の後、田沼家は子爵に叙されました。
が、経済的負担からか、後に爵位を返上し一般人となっています。中には南米に移り住んだ人もいるとか。

「賄賂政治家」から「有能な経済人」へと田沼意次の見直しがもっと進めば、ご子孫の方たちも鼻高々……とまでは難しいですかね。

長月 七紀・記

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参考:田沼意次/wikipedia 田沼氏/wikipedia

 





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