戦艦三笠/Wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 明治・大正・昭和時代 ゴールデンカムイ特集 その日、歴史が動いた

日露戦争をスッキリ解説!陸海軍の勝敗マトメ(日本海海戦・奉天会戦など)

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203高地は戦略的価値がなかった!?

そこで、乃木のメンツを保ちつつ戦局打開を図るため、児玉源太郎が派遣されました。

旅順陥落がその数日後のため、
「児玉が来てからあっという間に旅順が陥落した」
「児玉のおかげで旅順は攻略できた。乃木と伊地知は完全な無能だった」
とする意見が根強いですよね。しかし、児玉が来た頃には既に作戦が決まっていたという説もあります。

なんだかんだで203高地攻略は行われ、第三軍がもぎ取りました。

ちなみに現代では、同地は戦略的価値がほとんどなかったとみなされています。
ここで乃木の次男・保典もまた戦死しているのが実にやるせないところ。

乃木から見れば「海軍の要求に応えて203高地を取ったのに、戦況には大してメリットがなく、長男も次男も死んだ上、自分は無能呼ばわりされた」のですから、心痛にも程がありますね。
それでも帰国後は明治天皇にお詫びして自決を申し出て止められ、明治天皇崩御の際は殉死しており、本当に「忠臣」以外の形容が見当たりません。

旅順で第三軍の死者が多数に上ったこと等を含めて、彼の評価は分かれるところかもしれませんが、厚い人望が作戦を成功に導いたことは否定できないハズです。

乃木希典/Wikipediaより引用

 

37万vs25万 史上稀に見るレベルの大会戦「奉天会戦」

こうして、旅順攻略は多くの犠牲の上に終わりました。
遼東半島周辺の脅威がなくなったおかげで、陸軍は奉天のロシア陸軍本隊、海軍はバルチック艦隊に全力を注ぐことができるようになります。

順番としては【奉天会戦】が先です。

少しずつ有利な状況を作ってきた日本軍でしたが、この時点でも奉天のロシア陸軍は37万もおりました。
対する日本陸軍は、第一~第四軍まで合わせても25万ほど。

確実な記録に残っている中では、史上稀に見るレベルの大会戦です。

ちなみに「会戦」とは、大規模な陸上戦のことをいいます。
「会戦」がつく有名なものだとナポレオン戦争中の「三帝会戦(アウステルリッツの戦い)」がありますが、これでも7万vs8万5000ほど。

「会戦」とはついていないものまで含めても、奉天会戦の規模を上回るのは第二次世界大戦のレニングラード包囲戦(72万vs93万)やスターリングラード攻防戦(104万vs170万)くらいではないでしょうか。
大規模なイメージのあるノルマンディー上陸作戦も、12万vs11万ですし。(漏れがあったらスイマセン)

ともかく、奉天会戦もまた、列強に入りかけの日本にとっては空前絶後の戦いでした。

そしてここで日清戦争のときと似たような事が起きます。
ロシア軍の司令官であるクロパトキンが、なぜか我先にと撤退してしまったのです。言い訳は「戦略的撤退」でした。

奉天会戦で後退するロシア軍/Wikipediaより引用

 

対馬海峡にヤマを張り、日本海海戦!

クロパトキンの離脱によってロシア軍は足並み乱れ、さらに日本軍にとっては追い風となる南風が吹いたことで、奉天会戦は日本の勝利に終わりました。

ただ、ロシア本国では敗北を認めたがりません。
まだ切り札のバルチック艦隊が航行中でしたし、本国には兵がたくさんいたからです。

日本から見ても、まだバルチック艦隊がどこから来るのかわかっておらず、作戦を練らなければなりませんでした。

候補としては、北から順に宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡の三ヶ所。

バルチック艦隊の最終目的地はウラジオストクなので、宗谷か津軽のほうが良さそうにも見えます。
しかし、東郷平八郎は対馬にヤマを張り、新型丁字戦法の演習を繰り返して待ち構えることにしました。

日本側の予想よりもバルチック艦隊の到着が遅く、やきもきもしていたところバルチック艦隊が現れました。
場所は、予想通り、対馬海峡。

ついに【日本海海戦】の始まりです。

この戦いが始まったときの電報「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」はあまりにも有名ですが、実は当初は濃霧でした。
バルチック艦隊は霧の中をすり抜けていこうとしたようです。

が、時間が経つにつれて「晴朗」そのものの空模様となり、日本軍から見て絶好の条件が揃います。

このタイミングで掲げられたZ旗の意味「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」は、そのまま乗員の耳に届いたことでしょう。

 

東郷ターンで解消し、ポーツマス条約へ

バルチック艦隊を迎えた海軍は「東郷ターン」を繰り出します。

この戦術は、少しでもタイミングがズレるとフルボッコにされるような戦術ですから、バルチック艦隊の指揮官であるロジェストヴェンスキーは「勝った!」と思っていたそうです。

結果は真逆でした。
新型丁字戦法を用いた東郷平八郎の思い切りの良さと、部下たちの息の合った操船技術により、日本側が勝利を得たのです。

東郷平八郎(戦艦三笠の艦上にて)/wikipediaより引用

日露戦争前、“明治天皇の妻である昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬が立ち、「私が日本海軍をお守りします」とお告げした”なんてエピソードがあります。
が、日本海海戦での博打っぷりからすると、島津義弘あたりのほうが似合う気がしますね。東郷も薩摩出身ですし。

まぁ、この話は龍馬と同じ高知出身の政治家がでっち上げたともいわれていますし、ツッコむだけ野暮ですね、サーセン。

世界史に残る大勝を収めた日本は、この絶好の機会を逃さず、アメリカに連絡を取って和平の仲介を依頼しました。
これ以上長引いてまた戦闘が起これば、次は確実に日本が負ける――そんな読みであり、外交としてはこれ以上ない一手だったかもしれません。

交渉は、仲介国アメリカのポーツマスで行われました。
そのため日露戦争の講和条約は【ポーツマス条約】となっています。

 

南樺太が割譲されど賠償金はゼロだったので……

ポーツマス条約における最大の争点は、賠償金と樺太割譲でした。

外債を含む巨額の戦費を投じていた日本としては、どちらも譲れないところ。
一方のロシアから見れば、まだまだもう一戦、二戦程度はできるので、これらを渋ります。

しかし、日頃から見下していた黄色人種に負けたことは、紛れもない事実です。

ロシア国内では、貧しい暮らしを強いられていた上に、働き手の男性を奪われた一般市民によって血の日曜日事件などの反政府運動が起きていたため、あまりにゴネるのも得策ではないと判断。
双方の妥協により「南樺太を日本へ割譲」「その代わり賠償金はなし」といった内容で条約が結ばれました。

日本国民からすると「賠償金なし」はあまりにもユルイように思えました。
戦争によって働き手を取られているのですから、勝って十分な報奨がないと、当然ながら不満が溜まります。

結果、日比谷焼打事件などが起きてしまいます
また、外債返済のため政治も混乱していきます。

一方、戦ったばかりのロシアとはこの後しばらく協調路線が取られ、他の欧米諸国によるアジア進出を防ぐ方向で動くことになります。

ここに日英同盟が絡み、後年の第一次世界大戦において、日本は三国協商(英仏露)及び連合国側で関わっていくことになるわけです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「日英同盟」「日露戦争」「ポーツマス条約」
義和団の乱/Wikipedia
『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(→amazon link

 



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