徳川斉昭/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し

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寛政十二年(1800年)3月11日は、第八代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が誕生した日です。

最後の将軍である徳川慶喜らの父親として、また「幕末の賢侯」として有名な人ですが、他の言動にはツッコミたいところもちらほらあったりします。

大奥からも相当嫌われたりしていて、とにかくキャラの際立った人ですね。
その生涯を振り返ってみましょう。

 

当初は部屋住みとして埋もれていくハズだった

斉昭は、第七代水戸藩主・治紀の三男として生まれました。
この生まれ順ですから、当初は藩主の座を継ぐ予定もなく、部屋住み(何かあった時のために実家に残る人。基本的に冷遇される)時代を長く過ごします。

ただし、小さい頃から頭が良いことはわかっていたので、治紀としては「次男を養子に出すのはいいとして、長男だけだと何かイヤな予感がするから三男を家に残しておこう」と考えていたのかもしれません。
まあ、藩主であっても「謎の急死(という名の暗殺)」はままある時代ですからね……。

そしてトーチャンの予感を裏付けるかのように、八代藩主で斉昭の長兄である斉脩(なりのぶ)は、2つの問題を作ってしまいました。

ひとつは、正室と仲が良いにもかかわらず、後継ぎに恵まれなかったこと。
もうひとつは、その問題をはっきり解決しないまま斉脩本人が亡くなってしまったことです。

斉脩の正室が十一代将軍・家斉の娘だったため、「ワシの子供を養子にやろうか?」といわれたこともあったのですが、いざというとき将軍を止めなければならない御三家が、宗家の人を養子にもらっては本末転倒です。

特に水戸家は勤皇をモットーとしていましたので、あまりにも宗家寄りになると、朝廷からの信頼がガタ落ちしてしまいます。

しかも、例によって家臣の間でも意見が割れてしまったため、お家騒動ギリギリのてんやわんやになってしまいました。

結局、「斉脩が”斉昭を養子にして跡を継がせる”という遺書を残していた」ことで、めでたく斉昭が水戸藩を継ぐことになったのですけれども。……その遺書は本当に斉脩の筆跡だったのかどうか、とかはルッコんじゃいけません。ええ。

 

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弘道館を作り「学問は一生行うもの」

そんなわけで部屋住みから一転して藩主となった斉昭は、生来の聡明さを活かして藩政に取り組みます。

一番有名なのは、弘道館という藩校を作って、市民からも広く人材を求めたことでしょうか。水戸学の他に自然科学や武道など、広く学ばれていたようです。
「学問は一生行うもの」として、「卒業」という制度がなかったことも大きな特徴です。近年も「生涯学習」という単語が出てきましたが、弘道館では百年以上前からこの概念があったことになります。

弘道館/wikipediaより引用

また、斉昭は開国には反対でしたが、西洋の文物を取り入れることには積極的でした。

西洋式の兵器を国産化しようと試みたり、国防のための蝦夷地開拓・大きな船の建造許可を幕府に求めるなど、水戸藩や幕府だけでなく、国を守ろうといろいろやってもいます。

が、勢い余ってお寺の鐘や仏像を大砲の材料にしてしまったり、無理やり神社を作らせたり、軍事訓練を推し進めてしまったせいで、幕府から「お前隠居&謹慎な」と言いつけられてしまいました。

水戸藩は御三家の中で唯一江戸に藩主が定住するという特徴を持っていたのですけれども、ただでさえ領地も江戸の目と鼻の先なのに、こんなド派手な動きをしていたら目をつけられますよね。
なんで誰も諫言しなかったんや。

 

異人と国交なんてトンデモナイ! 焼き払え!

幸い(?)斉昭は身分の低い藩士にも人気があったため、復権を願う人も多く、謹慎は数年で解除されています。
それからさらに四年ほど経ってから、斉昭がまた政治の表舞台に大きく物申すタイミングがやって来ました。

黒船来航です。

斉昭は半分脅迫じみた交渉をしてくるペリーに対し、「異人と国交を持つなどとんでもない! 焼き払うべきです!!」と主張し、実際にも大量の大砲と軍艦を作って幕府に献上しています。
そういう仕事が早すぎるところが幕閣にウザがられたんじゃないですかね……。まあ、この頃の幕閣は腰が重すぎますけれども。

ペリー来航/wikipediaより引用

当然のことながら、斉昭は開国を進めようとする幕閣と激しく対立しました。この頃、開国派の代表格は井伊直弼です。
さらに、将軍継嗣問題でも斉昭と直弼は対立しました。
この辺は大河ドラマ「でも割と大きく取り上げられていたので、ご記憶の方も多そうですね。

当時の将軍は十三代・家定。
十二代・家慶の子供の中で唯一成人した人ですが、家定も病弱だったため子供ができるかどうか危ぶまれており、早いうちから「十四代将軍をどうするか」という問題が起きていました。

実は、家慶は「病弱な家定に将軍という重責を負わせるよりは、健康な他の者に継がせるべきではないだろうか」と言っていたこともあります。

そのとき候補に持ち上がったのが、斉昭の息子・慶喜でした。

 

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直弼らは、慶喜と張り合える血筋の家茂を担ぎあげる

慶喜は既に御三卿の一つ・一橋徳川家の養子に入っていました。
そもそも御三卿は「宗家もしくは御三家に跡継ぎがいなかったときに養子に行くため」に作られた家なので、再度養子に行くことには問題がなかったのです。

しかし、家慶の代では「直系のお世継ぎがいらっしゃるのに、わざわざ遠い血筋の方を将軍にするのはおかしいではありませんか」と反対されたため、家定が将軍になったのでした。

斉昭からすれば、「ワシの息子のほうがデキもいいし健康なのに! キーッ!」(※イメージです)と、モンスターペアレント的なことを考えたくなるのも無理のない話です。
ここで慶喜が将軍になってしまえば、斉昭が大御所のような権勢を持つことは火を見るより明らかでした。直弼らからすれば「マジ勘弁」ですよね。

そんなわけで、直弼らは慶喜と張り合えるだけの血筋の人物を担ぎ上げます。

それが、最終的に十四代将軍になった家茂です。

家茂は家定の従弟でしたので、家康まで血筋を遡らなければ宗家とのつながりがない慶喜よりもはるかに血筋が近く、理由付けとしては十分でした。




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さらにここでは、大奥の動きも大きく影響します。
というのも、斉昭は大奥の女性たちに非常に嫌われており、彼女らが影響を及ぼす幕閣や大名たちにも自然と嫌われたといわれているからです。
その原因は、主に斉昭の女性問題でした。

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