毛利敬親/Wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新 その日、歴史が動いた

毛利敬親(もうりたかちか)とは?激動の幕末で「そうせい候」と揶揄された生き様

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明治四年(1871年)3月28日は、長州藩主・毛利敬親(たかちか)が亡くなった日です。

またの名を毛利慶親(よしちか)と言い、実質的に最後の長州藩主なわけですが、幕末の話題で彼の名が出てくることはほとんどありません。

長州といえば倒幕派代表格であったにもかかわらず、なぜそのトップの影がこんなにも薄いのか。
敬親の生涯を追いかけながら考えてみましょう。

 

毛利家一門・福原房昌の長男として生まれた

敬親は、毛利家一門・福原房昌の長男として生まれました。

父が十一代藩主になったのですが、父の養子・斉広が先に藩主の座を継いでいます。その斉広も藩主になって、わずか20日という記録的な早さで亡くなってしまったため、敬親が17歳で藩主を継ぐことになりました。

敬親自身も藩主になる三ヶ月ほど前に、萩藩ができて以来の大洪水に遭遇しているという苦労ぶり。
気の弱い人だったらこの時点で「わしは藩主になんぞなりとうなかった!」とか言って出家でもしそうですね。

しかし、敬親は逃げませんでした。

長州藩も江戸時代の例にもれず、多大な借金があったため、まずは藩政改革に取り組みます。
お約束の質素倹約を始め、金融政策などは臣下に任せました。

また、江戸に藩校を作ったり、練兵を行ったりと文武両面で藩を立て直そうと試みます。

 

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松陰や高杉、大村などを輩出

一方、実務については「そうせい候」と呼ばれるほど部下に任せてノータッチでした。

どんな家臣から何を提言されても、敬親が「そうせい」としか言わなかったから……というアダ名だそうです。

ただし、彼の部下を選ぶ目が確かだったことも事実。
吉田松陰高杉晋作大村益次郎など、長州の優秀な人物はだいたい敬親に見出されていたのでした。

吉田松陰/wikipediaより引用

後年、「藩内の佐幕派・攘夷派どちらとも対立しないためだった」とか「そうしていなければ自分は暗殺されていただろう」と言っていたそうなので、一応考えあっての事だったようです。

実際に、家老のうち佐幕派だった人が尊皇派によって処刑されたこともありますし。

もし幕末の状況下で藩主が立て続けに早死していたら、毛利家がお取り潰しになっていたかもしれません。その場合、新しい藩主が来ても藩内は落ち着かず、薩長同盟どころではなかったでしょう。

薩摩は兵数や武器を補うためにイギリスへさらに接近し、幕府にはフランスがより肩入れするなど、下手をすれば戊辰戦争にもっと外国が介入する……なんてこともあったかもしれません。
かなり大げさな仮定ではありますが、ありえなくもなさそうですよね。

幕末の名君とされる島津斉彬や、徳川斉昭には暗殺説もあることですし、出過ぎまいとした敬親の判断は正しかった……と見ることもできます。

 

藩内が尊王攘夷に傾くと、発言力は次第に失われ……

黒船来航後は相模(現・神奈川県)の警備をしたり、密かに朝廷からの命令(密勅)で尊皇派になったり。
どちらも「あくまで上からの命令」ということにできますよね。藩士たちも、藩主には意見できてもさらにその上にモノを言うことはできません。

長州藩は一時朝廷と幕府の橋渡しも試みているのですが、薩摩の妨害により失敗。
その後、桂小五郎木戸孝允)らによって藩内は尊皇に傾いていき、敬親も止めることはしません。

桂小五郎(木戸孝允)/国立国会図書館蔵

外国船を打ち払うため、海防力の向上が必要ということで、本拠を萩から山口に移しています。

攘夷を実行して返り討ちにあったり、八月十八日の政変に敗れて京を追われたり、再び京に入ろうとして禁門の変を起こしたりと、はたから見れば悪あがきに近い行動が続きますが、敬親の意志がドコまで反映されているのかハッキリ言えないように思えます。
そんな重大な局面で率先して動いていたら、「そうせい候」なんてあだ名はつかないでしょうからね。

いずれにせよ敬親は官位を剥奪され、征伐される身になってしまいました。

止めなかったのは確かにまずいですけれども、当時の状況でうまく立ちまわるのも難しかったでしょう。まして上記のように家臣が藩内の人間にブッコロされたこともあるのですから、「明日は我が身」と思っていたとしても何らおかしくはありません。

 

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ストレスから顔面神経痛に悩まされていた?

第一次長州征伐の際は家老を三人切腹させて藩を守り、敬親自身も萩で謹慎しています。
その後の奇兵隊結成や長州藩の軍事改革については、どこまで関わっていたかこれまたよくわかりません。この期間も「そうせい」を貫いていたのでしょう。

慶応四年(1868年)5月には明治天皇に拝謁して官位をもらって名実共に表舞台に復帰、版籍奉還を提案して養子とともに10万石を得て権大納言まで登っているので、この辺は敬親の意志でしょうか。

しかし、その直後に家督を譲り、二年後に亡くなっています。
もしかしたら「自分が生きている間に、毛利家の名誉を回復しておきたい」と思っていたのかもしれませんね。

享年53で寿命面から見れば微妙ですが、ストレスを溜めていた可能性もありますね。

顔面神経痛に悩んでいたという話もありますし、残されている写真もかなり厳しい表情のものです。「烈公」と諡された徳川斉昭と比べるとどっちがどっちだかと思うほどです。よほど痛かったんでしょうね。

おそらく、自分が有能ではないということを理解していたからこそ、家を守ることだけを考えていたのでしょう。

そうだとすれば、逆に敬親を「無能」と言いきってしまうのはどうかな、という気もしてきます。

長月 七紀・記

更新2019年3月28日
初出2016年3月28日




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【参考】
国史大辞典
毛利敬親/wikipedia

 



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