「日本独自の文化って何?」と問われたら?
大多数の方が和食や着物などを思い浮かべそうですが、一つ強烈な風習というか武士独特の慣習を忘れてはいませんか。
そう、「切腹」です。
天正10年(1582年)6月4日に亡くなった清水宗治は、その最期が「切腹」だったことでよく知られた武将。
時に「戦国武将の鑑」ともされますが、なぜそうした評価を得るに至ったのか?
豊臣秀吉による中国地方攻略のハイライトであり、毛利家にとっては三木の干殺し・鳥取の飢え殺しに続く悪夢「備中高松城水攻め」、その城主。

清水宗治/wikipediaより引用
清水宗治の生涯と最期を振り返ってみましょう。
もともと毛利家の家臣ではなかったが
清水宗治は、もともと毛利家の家臣ではありませんでした。
三村家という備中(現・岡山県西部)の武士に仕えており、毛利元就の台頭で主家を見限って毛利家に従ったという経緯があります。
もっとも三村家は中枢人物ですら毛利家につくような状態だったので、元就と比較できるような器量の持ち主がいなかったのでしょう。比較する相手が悪すぎますが。

毛利元就/wikipediaより引用
しかし、宗治はその真面目さで毛利家での存在感を高めていきます。
特に、元就三男・小早川隆景の配下で毛利家の中国掌握に貢献したため、隆景の信頼はひとしおでした。
だからこそ、備中高松城という要衝を任されたのです。
そこへやってきた敵が悪かったとしか言いようがない。
常識も何もかも吹っ飛ばす羽柴秀吉。
城を水で取り囲んでしまう【水攻め】――そんな前代未聞の攻城に対し、宗治の忠誠心だけではとても太刀打ちできません。
あれよあれよという間に、備中高松城の周囲を大量の水で囲まれてしまったのです。
宗治殿の命と引き換えに城兵を救うには
いったい秀吉は如何にして水攻めを実行したのか?

絵・富永商太
約3km四方を高さ7mもの塀で取り囲み、水没させたと史料にはあります(『川角太閤記』など)。
しかし実際は、およそ全長300mで可能なことが研究結果から明らかになっています。
兵数は備中高松城の5,000に対し、秀吉軍は20,000。
これより前に行われていた、過酷すぎる兵糧攻め――鳥取城のときの城内は「刀折れ矢尽きる」どころではなく、家畜や雑草を食べつくしてもなお飢えるという惨事に陥ったことを、宗治も伝え聞いていたことでしょう。
詳細は、以下の記事にお譲りしますが、
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鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦
続きを見る
その惨状を少しでも聞いていたら「二度と繰り返してなるものか」と思うはず。
そこへ秀吉から毛利方に対し「宗治殿の命と引き換えに城兵を助けよう」という降伏勧告がきたのですから、宗治に選択肢はありませんでした。
本能寺の一件は伝わった?それでも静観?
秀吉と安国寺恵瓊の交渉により

安国寺恵瓊/wikipediaより引用
定められた和睦の条件は4つでした。
①清水宗治の切腹(城兵の命は助ける)
②備中高松城を明け渡す
③毛利の五カ国を秀吉に割譲(実際は三カ国となる)
④毛利から人質を出す
実はちょうどこのときに【本能寺の変】が起きています。
秀吉がひた隠しにしたため、毛利も宗治も信長の死を知らずにこの条件を呑んだとされています。
その一方で「いや、実際は毛利にも本能寺の一件が伝わっていた!」という指摘もあります。

本能寺の変で明智軍に追い詰められる織田信長/wikipediaより引用
一体どうだったのか?
実際は、情報がかなり錯綜していて毛利方でも確信を持つに至れなかった可能性が高そうです。
アヤフヤな情報に乗って家全体の命運をかける余裕はありません。
というのも、実は備中高松城だけでなく毛利全体がピンチに陥っていたのです。
度重なる合戦で毛利家全体が疲弊していたばかりか、制海権を握られて物資の運搬が滞り、これ以上の戦争継続が不可能でした。
そんなときに秀吉から出された条件が決して悪くはない。ならば、渡りに船とばかりに和睦を結ぶほかありません。
ちなみに、毛利が本能寺の変について「織田信長は確かに死んでいる」という確証を得たとき、秀吉はすでに遠く離れた摂津尼崎(180km先)辺りにおり、もはやどうこうできる距離ではなかったと目されています。
船上で一差し舞を披露して
いざ切腹となった清水宗治。
彼は自分の兄弟や援軍に来ていた将と共に腹を切ったのですが、このときの作法が切腹の基本になったとも伝わります。
なんでも「水浸しになった備中高松城から小船で出てきて、その上で一差し舞を披露してから腹を切り、介錯人に首を落とさせた」のだそうで。
潔いばかりではなく、美しく命を差し出した宗治に対し、秀吉は賛辞を惜しまなかったとか。
どのタイミングで言ったのか(そもそも本当に言ったのかも)不明ですが、「宗治の死を見届けるまでは出発できん」とも口にしていたそうです。
さすがに後世の武士達は舞いまではしませんが、「腹を切ってから首を落とす」という点は、武家社会の中でずっと続いていきます。
幕末頃にヨーロッパ人が切腹の場を見物したときも同じやり方だったそうです。
といっても、扇で腹を切るフリをするだけで、実質的には斬首と変わらないということも多かったようで(腹を切るのがあまりに痛いから)。

歌川国員の作『當世武勇傳 高﨑佐一郎』/wikipediaより引用
また、宗治の最期をモデルにしたと思しき表現で歴史から退場したことになっている人物もいます。
他ならぬ本能寺の変の当事者、織田信長です。
だいたいの創作で「信長は敦盛の一節を舞い(あるいは口ずさみ)、何人かの敵を返り討ちにした後、自ら本能寺の奥に入って腹を切った」としていますよね。
シチュエーションこそ違えど、宗治とイメージがかぶりませんか?
誰がこの表現を始めたのかはわかりませんが、おそらく「これカッコええな。信長にピッタリじゃん」と思った人が創作したのでしょう。
超絶かっこいい辞世の句、実は……
宗治の辞世の句がまた、超然とした心境を良く表しています。
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
個人的には、訳すのが無粋に感じるほどの名歌だと思います。
死や滅びに美学を見出すのは日本人特有の感覚といわれますが、『宗治って無駄死では?』と思う人も、こういった潔さを知ったら、また違う感想を抱くのではないでしょうか。
と、エエ話で終わりたかったのですが……。
実はこの歌、長州藩士の清水家が、自身の家を誇るため後世に作った可能性が高いようです。

清水宗治の首塚
まぁ、いずれにせよ彼が城兵の命を救い、毛利家を危機から脱出させたのは間違いありません。
備中高松城の本丸があった場所には現在、清水宗治の首塚が設置され、今なお多くの方に供養されているとのことです。
秀吉は、この後【山崎の戦い】で明智光秀を倒し、天下への道を駆け上がります。
よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。
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【参考】
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
堀新/井上泰至『秀吉の虚像と実像』(→amazon)
清水宗治/wikipedia






