刀狩り

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

刀狩り|実際どこまで狩ったのか 秀吉の狙いは「兵農分離」だった?

2025/07/07

喧嘩や暴力、ダメ絶対!

とは、わかっちゃいても、人間カッとなったときにはついつい手や足が出てしまうものです。

もし、怒りに我を忘れてしまったとき、手元に殺傷能力のある武器があったとしたら……なんて背筋の寒くなる話が日本の歴史にもありました。

天正十六年(1588年)7月8日は、秀吉が【刀狩令】を発布した日です。

刀狩り

「刀狩り」と言いますと、一昔前までは「農民から武器を取り上げて反抗できないようにしたよ!」という説が広まっていました。

しかし最近では「完全に武器を取り上げるのは無理だし、実際にしてないし、兵農分離が目的だったんだよ」という説が有力になってきていますね。

さらに全国一斉に出されたものではなく、地域によって実施された時期がバラバラで、天正十六年(1588年)のこのときは主に九州を対象にしたものでした。

例えば奥州では天正十八年(1590年)に出されております。

小田原征伐の後、奥州仕置で東北地方を平定してから行われたのですね。

では本題へ……と行きたいところですが、その前に刀狩令の布石となりそうな法律が出されていたので、そちらにも注目しておきましょう。

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刀狩りの前に「喧嘩停止令」

刀狩令の前に出されたのは【喧嘩停止令(けんかちょうじれい)】というものです。

ケンカというと何となくほのぼのとしたものを想像してしまいますが、当時はまさに命がけ。

別の言い方をすれば「決闘」とか「私闘」になるでしょうか。

刃物を持ち出してくることも多く、敵討ちでなくても刃傷沙汰になることが珍しくありませんでした。

神明裁判(鉄火起請とか)ならまだ穏やかなほうで……いやこれも十分荒っぽいですけれども。

鉄火起請湯起請

そうした血なまぐさい事件を戒めるために喧嘩停止令を定めたところ、法律というより判例集に近かったため、あまり抑止力になりませんでした。

そのため、秀吉はより確実に私闘を防ぐため、刀狩令を作ったのではないかともいわれています。

 


年貢滞納や一揆を起こすなぞけしからん、死刑!

さて、それでは刀狩令の条文がどんな感じだったのか見てみましょうか。

例によって超訳で進めて参ります。

◆秀吉の刀狩令(超訳)

一つ 農民は武器を持ってはならない。武器を振り回して年貢滞納や一揆を起こすなぞけしからん、死刑!

一つ 取り上げた武器は溶かして方広寺大仏の釘などにする。そうすれば皆あの世でもハッピー!

一つ だから農民は農具だけを使って、代々畑仕事に精を出すこと。つまり、争いを起こさないために武器を取り上げるんだから、ありがたいと思え!

大体こんな感じです。

1588年(天正16年)7月8日に出された秀吉の刀狩り令/早稲田大学図書館所蔵貴重資料HPより引用(→link

しかし、完全に武器を取り上げたわけではありません。

槍や弓など、刀以外の武器はそのままでしたし、「これは猪を駆除するためのモンなんで」とか「これは祭祀に使うものなので武器じゃありません」という言い訳が合法だったのです。

また、地方によっては刀狩令が出てしばらく経ってからまた刀を持てたとか。

 

刀を奪われるのは屈辱的なことでもあった

法の網目、ガバガバじゃねーか……とツッコミたくなるところですが、これには当時の常識も関係しています。

「男は大人になったら刀を持っていて当たり前」という観念だったので、今でいう成人のお祝いとして脇差を贈るのが慣わしの地域も多かったのです。

おおよそ刃渡り30~60cmぐらいの刀ですね。

そのため、刀を奪われるというのは相当な屈辱――というと明治時代の【廃刀令】を思い出されるかもしれませんが、

廃刀令
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さすがに近代ともなれば「刀って必要なくない?」という風潮にもなっており、刀狩り当時とは必ずしも比べられなさそうです。

なんせ戦国時代は、現代のように警察が見回りをしてくれるわけでもありません。

村人同士の合戦もある程ですから、庶民からして自衛のために武器が必要だったんですね。

 

「皆自慢の刀があろう、儂に見せておくれ」

とはいえ、秀吉は当初、本気で農民の完全武装解除を狙っていた節があります。

刀狩令の前年に肥前(現・佐賀県&長崎県の大部分)で下地作りと思しき事をしていたのです。

「皆自慢の刀があろう。どれどれ、わしに見せておくれ。ものによっては高く買い取るぞよ」(※イメージです)と言って、村人に刀を持ってこさせ、記録をとっていました。

そして翌年、刀狩令が出された後、肥前では1万6,000振りもの刀が没収されたとか。

南北朝時代あたりから「先祖代々伝わる名刀で化け物退治をしました」という伝承が増えてくるので、おそらく秀吉の時代でもその辺の家に良い刀がゴロゴロあったんでしょうね。

『刀剣乱舞』で市民権を得た名刀の数々のうち、こちらは東京国立博物館HP(→link)にて閲覧できる「黒韋包金桐紋糸巻太刀(くろかわづつみきんきりもんのいとまきのたち)」です

もしかしたら秀吉は、肥前で「農民から完全に武器を取り上げることができるかどうか」という実験を行ったのではないでしょうか。

そして、予想以上の刀が出てきたため、これを全国でやるのは無理だと感じ、「槍とか弓まで取り上げるの無理じゃね? とりあえず刀だけ没収しとこ」(※イメージです)と考え直したのかもしれません。

さらには秀吉オリジナルの政策というわけでもなく、天正四年(1576年)、越前で柴田勝家が先に刀狩りを実施していた事例が残っています。

もともと一揆の激しい地域でしたので、それを防ぐためだったと考えられています。

身分の確定というより、武力を奪うのが目的だったんですね。

刀狩の目的は、当初は農民を無力化するものだったのが、次第に兵農分離へウェイトも置かれてきた……それが実情だったのではないでしょうか。

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【参考】
国史大辞典
堀新/井上泰至『秀吉の虚像と実像』(→amazon
刀狩令/Wikipedia
喧嘩停止令/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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