若干18才のヴィクトリア女王が即位したとき、国民は可憐な女王の姿に魅了されました。
なんせ彼女の前に王座についたハノーヴァー朝の国王たちは、国民の手本となる人物とは言いがたい君主ばかり。
ジョージ三世をのぞく王たちは全員好色で粗暴、素行に問題があり、唯一の例外であるジョージ三世にしても、我が子の乱行と自らの発狂に苦しめられています。
今度の若き女王こそ、人々の模範となる人物であって欲しい!
多くの国民がそう願っていたことでしょうし、実際、その願いは叶えられます。
ヴィクトリアは堅物でした。
生真面目で、頑固。
そんな彼女が選んだ結婚相手はザクセン=コーブルク=ゴータ公子のアルバートです。
ヴィクトリアにとって従兄にあたる彼は、さらに輪を掛けて真面目でした。
「愛人を持つなんて、考えただけで気分が悪くなる!」
ヴィクトリア朝の英国紳士とは、本来のイギリス人の気質というよりも、この堅物のドイツ人であるアルバートがお手本となった理想像でしょう。
ハンサムで生真面目なアルバートは、ヴィトリアにとって理想の相手でした。
9人の子に恵まれた国王の家族は、あたたかみがあり清らかな、厳格なプロテスタント的理想にかなうものでした。
国民にとって理想的な、あたたかい家族像。
それがヴィクトリア女王一家のはずでした。
しかし国王夫妻に誤算が生じます……。
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やんちゃなバーティ 父祖の血に覚醒する
最初の誤算。
それは長男の王太子アルバート(エドワード7世)が成長するにつれ、素行に不穏な兆しが見えてきたのです。
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国王夫妻の子供たちは、王宮で家庭教師をつけられ、厳しくしつけられていました。
バーティは賢い少年でしたが、学問に興味はありません。
厳しい学習としつけに反発し、家庭教師に当たり散らすようになります。
そんなバーティは1859年、やっと外の空気を吸う機会に恵まれました。名門オクスフォード大学に入学させられたのです。
さらに二年後には、ケンブリッジ大学へ。
しかしバーティは学問よりも芸術や文学、そしてそれ以上に酒、煙草、賭博、美しい女性が好きなのでした。
1861年、バーティはアイルランドで陸軍の訓練を受けました。
同年代の若者たちは、バーティに「みんながやっている気持ちいいこと」を勧めてきます。それは女優兼娼婦のネリー・クリフデン相手に童貞を捨てることでした。
ベッドにすべりこんできたネリー相手に、バーティは「堕落」したのでした。
「バーティが娼婦相手に童貞を捨てた、ですって!?」
両親は我が子の堕落を歎き悲しみ、息子の素行に頭を痛めるしかありません。
ケンブリッジ大学の学寮長からは「皇太子を何とかしてください」と苦情が寄せられる始末。
ヴィクトリアは激怒し、ケンブリッジ大学総長をつとめるアルバートは胃痛に苦しめられました。
アルバートは体調不良をおしてまで、ケンブリッジへバーティをしかり飛ばすために向かうのでした。
欧州一の美女を妻にすれば少しは落ち着くか?
その直後、アルバートは僅か42才で薨去しました。
死因は腸チフスでしたが、ヴィクトリアは「馬鹿息子のせいで心労がたたって、寿命が縮んだ!」と信じ込み、バーティを憎むようになります。
「バーティの素行を落ち着けるためには、美女の妃がいればよいのでは?」
ヴィクトリアはそう考えました。
そこで彼女が選んだのはデンマーク王女のアレグザンドラ、愛称アリックス。
ヨーロッパ一の美女の座を、あの伝説的なシシーことエリザベートと競っていた王女でした。
しかし、どんな美女を妻に持とうと、バーティの遊び好きはまったく収まる気配がありません。
博奕、飲酒、喫煙、そして美女との逢瀬が何より好き。
社交界の美女と浮き名を流すバーティの姿は王室の恥部そのものでした。
「さあ、賭けた賭けた! 王太子殿下は今度の愛人とどれだけ持つか賭けてみようぜ!」
国民たちの中には、そんな賭けごとをする者まで出る始末。
ヴィクトリアとアリックスは、バーティのそんな放蕩三昧を苦い思いで見守り続けることになるのでした。
そして、さらに大きな問題が出てきます。
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