豊川稲荷

豊川稲荷

寺社・宗教

豊川稲荷は神社ではなく妙厳寺というお寺です~それがなぜ稲荷となっているのか

2024/12/30

初詣の参拝客が100万人を越える三河地方(愛知県東部の豊川市)の豊川稲荷。

京都の伏見稲荷と並んで「三大稲荷」と呼ばれています。

いなり寿司発祥の地としても知られ、何百体というキツネの石像が並ぶ「霊狐塚」は、インスタ映えとしても人気ですね。

画像をご覧の通り「これでもか!」と並ぶ狐の姿は圧巻ですが、

豊川稲荷

今さらながら一つ断っておきますと、ここ、正式名称は曹洞宗の寺院「妙厳寺」となります。

神社ではなく寺――。

他の著名な稲荷は神社であるのに、なぜ豊川稲荷だけ仏教寺院なのか?

その歴史と由来を振り返ってみましょう。

 


嘉吉元年(1441年)に東海義易が開創

比叡山延暦寺などの「◯◯山」に該当する山号――豊川稲荷は「円福山」なのですが、こちらもほとんど知られていませんよね。

その他の別称としては「豊川閣」があり、江戸時代に公家の有栖川宮家が扁額(へんがく)を寄進したため、その名がつけられました。

つまりここは

・豊川稲荷
・妙厳寺
・円福山
・豊川閣

というように4つの名前をもつお寺なのです。

本稿では、一般的な名称である豊川稲荷で説明を進めますね。

本殿(編集部撮影)

豊川稲荷の開山は、室町時代の嘉吉元年(1441年)でした。

遠江の普済寺(静岡県浜松市)を開いた華蔵義曇(けぞう ぎどん)の弟子で、三河出身の東海義易(とうかい ぎえき)が開創。

遠江は普済寺、三河は豊川稲荷が信仰の拠点となりました。

嘉吉元年というと、歴史ファンにはよく知られた【嘉吉の乱】が起こった年です。

播磨(兵庫県)守護の赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)を京都の自邸の宴会に招いて暗殺した大事件。

播磨国に逃げ帰った赤松は幕府軍に攻められて滅亡しましたが、室町幕府の権威は衰え、その後、応仁の乱(1467~77年)へとつながっていきます。

こうした地方分権が一気に広まろうとした時代に、九州出身の華蔵義曇も引馬城(のちの浜松城)の領主から誘われ、東海地方で布教の道を選んだとおもわれます。

ではなぜ、曹洞宗という座禅を中心とするお寺が稲荷になったのでしょうか。

 


なぜ稲荷となったのか?

豊川稲荷の本尊は、千手観音菩薩です。

鎌倉時代に九州で活躍した曹洞宗の高僧・寒巌義尹(かんがんぎいん・1217-1300年)が伝来したもので、キツネとは結びつきません。

寒巌義尹/wikipediaより引用

稲荷となったのは、寒巌が感得(真理を悟る)して自ら彫刻した「豊川枳尼真天(とよかわだきにしんてん)」です。

寺伝によると、寒巌が文永元年(1264年)に修行のため宋へ渡り、1267年に帰国した際に海上で、白い狐にまたがった荼枳尼天(豊川稲荷では枳尼真天)を見て感動し、帰国後、自ら刻んで終生守護神としてまつった、とされています(豊川閣妙厳寺略縁起より)。

この白い狐にまたがった稲穂をかついだ像が「豊川稲荷」と通称され、江戸時代の18世紀後半以降から、寺全体が「豊川稲荷」として著名になったのです。

安永4年(1775年)成立の『三河刪補松』に

「当寺ノ境内ニ平八ト云名狐アリ、近年祠ヲ建、稲荷明神ト崇ム」

とあり、寺と稲荷を結びつけられたことがハッキリわかる資料です。

鎌倉時代の九州の高僧と室町時代に開かれた東海地方の寺では、距離も時間も大きく離れています。

ここは宗教上の大切な言い伝えですから、無粋なツッコミは控えたいところですが、少し歴史的に考えてみましょう。

明治時代になって、廃仏毀釈の嵐が巻き起こったときに、妙厳寺も厳しい立場に置かれました。

「寺なのに稲荷(神社)とはどういうことか!」

政府からそう責められたとき、神道神社系のキツネを標榜しているのではなく、仏教の荼枳尼天がまたがるキツネのことであると主張して難を逃れました。

決め手となったのは、寒巌というところです。

なぜ、鎌倉時代の寒巌を持ち出したかというと、寒巌は【承久の乱】で知られる後鳥羽上皇の息子なのです。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

武士と戦った天皇や皇族が明治維新で名誉回復されますが、その一例でもありますね。

また、同寺には由緒不明な鎌倉時代の仏像がありまして。

室町に設立した寺がなぜ鎌倉時代の仏像を持っているのか?というと、明治時代に経営の苦しくなった古刹(こさつ)が寒厳時代にマッチする仏像を放出したということも、確率としては、捨てきれないでしょう。

結論は出さずに、ここらへんで察しておくのが無難ですかね。

 

義元や信長らに続き大岡忠相も信奉

豊川稲荷では、開山(創始者)を東海義易(~1497年)とし、開基(たいてい中興の祖)を戦国武将の今川義元(1519~60年)としています。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

駿河の大名・今川義元が、遠江や三河を侵攻して支配したことは知られていますが、豊川稲荷周辺はもともと今川氏の飛び地でした(他には那古野城などが有名)。

三河への侵攻前から、このエリアには資金投入するなどして整備し、三河侵攻の橋頭堡とした一面もあります。

山門は、後世でかなり手が入っていると見られますが、今川義元寄進の門とされています。

義元が寄進したとされる山門(編集部撮影)

戦国時代には、織田 信長、九鬼 嘉隆らも寄進。

さらに一世紀ほど時が進み、町奉行で有名な大岡越前守忠相(1677~1751年)が信奉したのが豊川稲荷(枳尼真天)とされています。

歴史上の大岡忠相は町奉行にとどまらず、最終的に三河国額田郡西大平(愛知県岡崎市)で1万石の大名となりました。

将軍・徳川吉宗の側近で、6000石ほどの中級旗本だったのが、寺社奉行などを経て大出世を遂げたのです。

かような異例の出世を遂げたため庶民に人気が出て、「大岡裁き」などの逸話が創作されました。

また、東京都港区元赤坂一丁目に、豊川稲荷(豊川閣荼枳尼真天堂)があります。

大岡忠相が藩祖となった三河・西大平藩の下屋敷に、死後70年以上たった文政11年(1828年)に、豊川稲荷の分霊を勧請したものです。

文政年間には、大岡忠相は「大岡裁き」として江戸の人気ものになっていました。

この大岡が信仰したのが稲荷さま。

稲荷は基本的に神社系であり、また「居成り」に通じることから、江戸の町では武士、庶民を問わず屋敷を守る神として信奉されました。

大岡忠相の場合も、在命中に「豊川稲荷の稲荷」に限定して信奉していたかというと、はっきりしません。

むしろ、三河の稲荷=豊川稲荷が結びつけられたと考えるのが自然でしょう。

実際に、西大平藩は西三河の岡崎市、豊川稲荷は東三河と、地域が異なります。

が、江戸時代の庶民にとっては、同じ三河、さらに西大平藩は1万石の小藩ですから、藩祖の人気に乗じて、大岡は豊川稲荷の稲荷を信奉していたとの物語を流布した可能性もありそうです。

江戸時代の信仰のありかたを考える上でおもしろいテーマですが、やぼな推測でもありますので、このあたりでやめておきましょう。

なお、東京の豊川稲荷は、明治時代に現在地への移転に伴って、西大平藩から愛知の豊川稲荷の直轄管理となりました。

 


4,000円以上の祈祷料でおいなりさんや精進料理

豊川稲荷では、大晦日から元旦にかけて口喧嘩をしながら参籠堂に籠ることで豊作を祈る「喧嘩参籠」という行事が行われます。

元旦からの初詣もいいですが、大晦日から参拝すると、おもしろい行事が見られるかもしれません。

また、ほかの寺社と同様にご祈祷をうけることもでき、祈祷料を4000円以上収めると、食事がついてきます。

あまり大々的にPRしていませんが、大きな畳部屋で、おいなりさんを含む熱々の精進料理が食べられるので、かなりのオススメ!

お味噌汁はおかわり自由でお稲荷さんもつきます(編集部撮影)

いずれにせよ豊川稲荷の周辺の道路は非常に狭い上、駐車場も有料無料含めて多くありません。

つまりは公共交通機関での移動がベスト。

名古屋からですと名鉄が定番ですが、ライバルのJRは新幹線こだまをつかって豊橋駅まで行く、かなり割引率の良い往復チケットを販売しています(在来線のみの往復きっぷもあり)。

新幹線の通常料金より最大2,000円以上も安くなります(→link)。


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【参考】
豊川稲荷公式サイト(→link

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恵美嘉樹

作家・歴史旅コンサルタント。 「旅を通じて歴史研究の最前線を社会に還元する」を理念に、二人組ユニットとして活動している。 慶應義塾大学および明治大学の大学・大学院で日本史・世界史を専攻し、歴史書籍の編集者や航空会社の国際広報など、多分野での実務経験を積む。 その後、日本初の“歴史旅コンサルタント”として独立。「日本遺産」「ヤマト巡歴」「世界史街道」など、新たな知的旅行スタイルを提案し、古代史から世界史まで広い領域を対象に、旅と歴史を融合させた企画・執筆・講演を行っている。 ◆主な著書 『日本の神様と神社 ― 神話と歴史の謎を解く』(講談社、2009年) 『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP研究所、2007年) 『図説 最新日本古代史』(学習研究社、2008年) 『最新 日本古代史の謎』(学習研究社、2011年) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/01104329

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