ロマンチックなようにも思えますが、それも状況次第。
例えば妻子を捨てての行状ならば物議を醸しかねませんし、王冠を投げ捨てたため大騒ぎになったエドワード8世のような王もいます。
では、1678年10月2日に亡くなった明の将軍・呉三桂はどうか?
彼の場合は最悪のカタチで行われます。
捨てたのは忠誠心だけでなく「国」そのものだったのです。
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明末期、腐敗した王朝の中
明王朝は、14世紀から17世紀前半まで続いた王朝です。
日本ですと、足利義満の頃から徳川秀忠・家光の時代まで続いたわけで、中国王朝の中でもまあまあの長さと言えましょう。
しかし、その政治腐敗は、甚だしいものがありました。
明王朝を弱らせた要素はいろいろあります。
日本も無関係とは言えません……と言えば、真っ先にイメージされるのが【倭寇】でしょう。
倭寇の構成員は日本人以外も多かったというのが現在の見方ではあります。
しかし彼らの武器は日本製の殺傷力の高いものであり、日本とは無関係であったとは言えません。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に対抗するため援軍を出し、損失を負ったこと。こうした「外患」もありました。
しかし、害悪の最たる連中は「宦官」でした。
彼らに堕落させられた皇帝は政治をかえりみずに遊び呆けたり、引きこもり状態になったり。政治どころではなかったのです。
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明朝のラストエンペラーとなる崇禎帝は例外的に真面目な性格で、政治を立て直そうと張り切りますが、時既に遅し。
北方からは満州族が南下し北京をうかがい、さらには農民反乱軍(流賊)が蔓延るという、どうしようもない状態に陥っていました。
崇禎帝~中国・明王朝の皇帝が自滅しちゃったのは疑心暗鬼から?
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宴の席にいた美女に一目惚れ
時は1644年。
呉三桂は明朝でも期待されるエース級の将軍でした。
父・呉襄の代から立派な将軍で、その武勇をみこまれた息子。若くして提督となり、遼西にある寧遠州をあずかっていました。
彼ならばこの重要拠点を任せるに足る――そう思われたのでしょう。
そんな呉三桂は、北京に呼び出されます。
李自成率いる農民反乱軍が北京に押し寄せるとの噂が立ったため、首都の防衛を任せようとしたのです。
そこで待ち受けていたのは、敵ではなく接待の日々でした。
自分たちだけでも反乱軍から守って貰いたい!と考えた人々が、こぞって呉三桂に取り入ろうとしたのです。
そのうち一人に、田弘遇という男がいました。
彼は崇禎帝の寵姫・田秀英の父にあたります。
呉三桂は、その豪勢な宴席で歌う一人の美妓に目をとめます。
陳円円――。
類い稀な美貌と美声が有名で、「秦淮八艳(南京の美妓ベスト8)」に選ばれるほどの女性でした。
彼女は幼くして妓女として売られた女性でした。
しかし、当時の妓女に必要とされる美貌、美声、歌唱力、知性、教養、身のこなし全てを身につけており、たちまち頂点にのぼりつめ、大枚はたいて田弘遇が身請けした際はちょっとしたニュースになったほど。
当時、二十歳前後でした。
還暦を過ぎた田弘遇よりも、まだ32才の若き将軍呉三桂の方がよかったのでしょう。
二人はたちまち恋に落ちます。
若い2人は、このまま時が止まればいいのに、なんて思いがちですが、この情勢悪化の折にゆっくりできるはずはありません。
任地に戻るよう、崇禎帝から命令を受けた呉三桂は、父のもとに陳円円を預けるほかありませんでした。
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