日本人にとって教育と言えば、長らく「儒教の経典を読むこと」でした。
現在もあちこちで儒教を目にします。
15才を示す「立志」。
40才を示す「不惑」。
何気なく見かける言葉もその一つで、日本からその影響を消し去ることは不可能でありましょう。
しかし、そもそも儒教とは何なのか?
元禄3年(1690年)12月22日は徳川綱吉の主導で「湯島聖堂」が完成した日。
江戸時代の儒学・学問の中心となった記念すべき日に、本稿では「儒教とはなんぞや?」をおさらいしてみたいと思います。
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儒家の元祖は「周」が理想
すべての儒家の祖は、孔子とされています。
※映画『孔子の教え』
孔子の生きた春秋時代は、多くの国が分裂し、激しい争いを繰り返す時代でした。
生涯をその苦難の中で過ごした孔子。
政争に巻き込まれ、弟子たちを失い、自分の理想とは何か追い続けながら、74年の長い人生を生き抜きます。
その孔子がまとめたものが、魯国に伝わっていた「周(BC1046年頃-BC256年)」の古い礼制です。
周こそ理想の時代とみなし、その思想を伝えることが孔子の理想でした。
様々な思想家のいた春秋戦国時代
中国の春秋戦国時代は、様々な思想家がおりました。
「諸子百家」と呼ばれる状態です。
その中で、儒教は「ワン・オブ・ゼム」に過ぎません。
全国を統一した秦の始皇帝は、法家思想を採用。儒家の徳治主義に対して、法治主義をとったのが法家思想です。
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この思想、たしかに合理的ではあったのですが、秦での適用は厳格過ぎて、人々の評判は最悪でした。
秦に仕えた法家の中には、非業の死を遂げた者もいます。
商鞅(しょうおう)は、八つ裂き。
李斯(りし)は、腰斬。
彼らは人々から同情されるどころか、
「やたら厳しい法律を作るから、自分で制定した酷刑で死ぬんだよ、ざまぁw」
と思われてしまいました。
要するに法家は、嫌われ者だったんですな。
漢の時代に広まる
秦を滅ぼした漢の劉邦は、お行儀の良さとはむしろ無縁の人物でした。
特に、堅苦しい学級委員長みたいな儒家のことが大嫌い。
儒家の冠にワザワザ小便を引っかけたこともあります。
そんな劉邦に、陸賈(りくか)という儒家は辛抱強く、儒教の経典を読み聞かせました。
「うっせーよバーカ! 俺は馬上から天下を取ったんだぞ、儒教の経典なんざ、屁のつっぱりにもならねえわ」
冷たくあしらわれても、陸賈はめげません。
「馬上から天下を取ることはできましょうが、馬上で天下を治めることはできるのでしょうか。秦だって仁義に則り、古代の聖王を見習っていたら、天下をまだ失っていなかったかもしれませんよね」
「あー……お前、学あるな。言われてみればそうかも」
劉邦もこの理屈には納得し、『そういえば……』と考えたのでした。
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