吉田松陰

『絹本着色吉田松陰像』/wikipediaより引用

幕末・維新

なぜ長州藩の天才・吉田松陰は処刑されたのか~意外な理由で散った30年の生涯

松下村塾を開き、キレッキレの生徒たちを引き連れた――。

吉田松陰というと、どんなイメージをお持ちですか?

理不尽な処刑をされ、幕末の志士たちに神のごとく崇敬される。漠然とそんな印象をお持ちかもしれません。

実際「吉田松陰」で検索をかけると、候補検索の上位にあがってくるのが【吉田松陰 名言】ですから、今なお彼に学びたい現代人も少なくないのでしょう。

では、実際の松陰はどんな人物だったのか?

名言通りの方なのか。

安政6年(1859年)10月27日、享年30という若さで散った吉田松陰の人物像に迫ってみましょう。

吉田松陰/wikipediaより引用

 


天保元年 杉家に誕生する

吉田松陰は天保元年(1830年)、長門国の萩で生まれました。

父は、長州藩士・杉百合之助常道で、母は滝。

元は、家禄26石の杉家二男であり、その妹には久坂玄瑞に嫁いだ杉文(すぎ ふみ)がおりました。大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公ですのでご存知の方もおられるでしょう。

松陰は5才の時、叔父・吉田大助賢良の仮養子となり、翌年、大助の死によって吉田家を継ぐことになります。叔父の大助とは、山鹿流兵学師範として毛利家に仕えた藩士でした。

家督を継いだ吉田家は、杉家よりも収入が多く家禄は57石6斗。松陰はそのまま杉家に暮らしましたが、そこはなかなか大所帯でもありまして。

父:百合之助

母:滝

長男:梅太郎

二男:寅次郎(吉田松陰)

長女:千代(児玉祐之の妻、改名して芳子)

二女:寿(楫取素彦最初の妻)

三女:艶(夭折したため、文を三女とする場合も)

四女:文(久坂玄瑞の妻、のちに楫取素彦2番目の妻・美和子)

三男:敏三郎

杉家は貧しい武家のため自給自足で畑を耕やさねばならず、松陰も農作業に従事しながら『四書五経』を暗唱していたと伝わります。

父・百合之助が生真面目な人で、一方、母・滝は明るく冗談が好きな性格でした。

 


叔父・玉木文之進による厳しい教育

松陰といえば、やはり幕末長州藩の思想をリードした強烈なキャラクターでしょう。

いわば日本全体に影響を与えた、そのエネルギーはどこから来たものなのか。

生真面目な父と、明るい母からの由来ではなく、彼の教育を担当した叔父・玉木文之進による猛烈な教育ではないか?と思われます。

叔父・吉田大助が没した時、松陰は兵学師範の家を継がねばならない運命が決まりました。

そこで「お前は兵学師範として、恥じん学問を身につけにゃあならん」と考えた玉木が、まだ5才の甥に学問を叩き込むことにしたのです。

5才と言えば、まだまだ就学には早い年齢であり、いくら江戸時代といえども初歩的な教育を受ける程度の頃。

同年代の子供なら凧揚げや竹馬に興じているときに、玉木はビシバシと容赦なく、恐ろしいほどのスパルタ教育を行ったのです。

松陰の少年時代は、5才にして終わりました。その日から、彼に許されたのは漢書を読むか、何かを書くか。

あるとき、松陰は勉強中、頰に虫が止まったため払いのけました。すると玉木は血相を変えて折檻したのです。

「虫が止まって痒いというのは“私”の感情であり、学問は“公”のものじゃ。公私混同をするな。許せば長じて世の中に出た時に、私利私欲を図る者になる!」

教育方針はさておき、その方法は子供には極めて厳しいもの。

それが吉と出たのでしょうか。成長してからの松陰は、小さなルールよりも大きな利益を気にする人物となりました。

 


明倫館へ通う しかし生徒ではなく……

天保9年(1838年)、こうした相当厳しい教育の成果が実り、まだ寅次郎と呼ばれていた彼は、なんと9才にして「明倫館」に出仕することになります。

驚くことに、生徒として何かを習うためではありません。

彼は山鹿流兵学の教授見習いとして藩校に出向き、翌年には、叔父の後見のもと教授になるのです。

明倫館の跡地に建つ明倫小学校

天保11年(1840年)のこと。

第13代藩主・毛利敬親は、11才の松陰が『武教全書』の講義を行っているところを見て、驚きを隠せませんでした。

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「そなたの師は誰だ?」

「玉木文之進であります」

敬親はこのあと、しばしば松陰を講義に呼びつけました。神童の成長を見守りながら、微笑む様が目に浮かぶようではありませんか。

長州藩といえば、松下村塾の麒麟児・高杉晋作と久坂玄瑞が龍虎として知られ、その才覚を松陰に認められていたことは有名ですが、やはり師匠の方が何枚も上手だったようです。

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ただ……。
裃をつけて講義を行う少年時代の松陰を想像すると、現代人の勝手な感覚ながら、痛々しい思いも抱いてしまいます。

日本産の厳しい幼年期教育といえば薩摩藩の「郷中教育」や会津藩の「什」による教育があります。

あれは同年代の子供同士で、じゃれあい遊びながら、社会性を徐々に身につけるものです。厳しい内容であっても、仲間と競い合い、のびのびと楽しむこともできました。

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カリキュラムは、あくまで子供向け。

薩摩藩の「日新公いろは歌」にせよ、会津藩の「什の掟」にせよ、子供向けのやさしい内容から、集団生活のルールや、基本的な道徳を教えるものです。

 

それと比較すると、松陰の受けた教育は、どう見たって特異なものでしょう。

時にエキセントリックな松陰の性格。

バランスを欠いたような塾生との距離感。

独自する歩みが彼の性格に影響を与えた可能性は否めないハズです。

 

萩の外を見たい

天保14年(1843年)は、杉家にとって嬉しい年であったことでしょう。

杉家にとって四女となる文が誕生。父の百合之助は「百人中間頭兼盗賊改方」という、治安維持担当、今でいうところの警察署長となったのです。

貧しい同家に、ようやく経済的な余裕が生まれ、下女を雇うことすらできるようになったのです。

生活レベルに余裕が出来るようになってから数年経た、嘉永3年(1850年)。

19才になった松陰は、九州遊学を思い立ちます。外国との玄関口・長崎があったからです。

シーボルト来日時の長崎出島(異国叢書より)/国立国会図書館蔵

萩しか知らなかった松陰は、このとき世界の大きさを痛感します。

阿片戦争から8年後。列強の脅威をひしひしと感じ、強い危機感を抱きました。

よくフィクション作品では、松陰のような若者が危機感を抱く一方、幕府は能天気であったという描写をされます。

残念ながらそれは間違いです。むしろ、幕府は国際情勢を徹底的に分析し、結論に至っていました。

「今、異国の船が来たら、開国でしか対応できない。武力による追い払いを検討する時期は、既に過ぎている」

幕府は水面下で英語通訳を養成して準備を整えながら、できる限りXデーが遠くなることを祈るような状態でした。

これは例えば薩摩藩主・島津斉興もそうでして。

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異国との接点が多い薩摩では、外国船の強靭さ、そしてそれを支える経済力などに通じており、自らの経済的限界点を知っているがゆえに武備は無駄だと考えました。

息子の島津斉彬にしても明治維新後の富国強兵に似た志向を持っていながら、父・斉興と知識はさほど変わらずの知見でした。

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しかし、当時はなかなかそこまで知るに至りません。

そのため「国難が迫っているのに幕府はなんでボケッとしているんだ!」と、イライラしてしまうわけです。それが無謀な攘夷派へと繋がるのですね。

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