一向一揆

蓮如が著した六字名号(ろくじみょうごう=南無阿弥陀仏)/wikipediaより引用

寺社・一揆

戦国大名を苦しめた「一向一揆」10の事例~原因となったのは宗教か権力者か

室町時代に発生し、戦国時代に盛んになった【一向一揆】って、なんだか怖いイメージがありますよね。

お坊さんや農民たちが念仏を唱えながら、武士たちに突っ込んでいきそうな、命知らずな雰囲気と申しましょうか。

宗教ってあらためて恐ろしい――そう感じる方もおられるでしょう。

しかし、当時を考えると「そりゃ仕方ないわ」という状況だったりします。

殺伐とした戦国時代に対して、誰もが生きるのに必死でした。

一向一揆もまた同様。

己の生存を賭して民衆が選んだ選択肢とはいかなるものだったか?

10の事例と共に見て参りましょう。

 


そもそも一向一揆とは?

言葉の定義としては

「浄土真宗本願寺派の信徒、あるいは本願寺のお偉いさんが関わった一揆」

となります。

「信徒」の中には、僧侶はもちろん農民だけでなく武士も含まれました。

となると「浄土真宗ってヤバイ宗教だったの?」と思ってしまうかもしれませんが、当然、そんなことはありません。

開祖・親鸞は「俗世の権力を否定すべき」とか煽動するようなことは行っておりませんし、また、室町時代の法主(本願寺のトップ)・本願寺蓮如も、当初は一向一揆を起こしていた宗徒たちに

「守護・地頭に逆らうな」

「年貢をちゃんと収めなさい」

「他の宗教を否定してはいけない」

とお達しを出していたこともあるほどです。

それに浄土真宗の信者だからといって、必ずしも一向一揆に参加していたわけではありません。

エリア的に見ると、一向一揆が多かったのは近畿(一部東海)や北陸であって、その他のエリアにはほとんど出てこないですよね。

親鸞/wikipediaより引用

では、なぜ浄土真宗が一揆の主犯であるかのように言われるのでしょうか?

それは、浄土真宗がもともと

「学のない農民や武士も救われるように」

「面倒な儀式や厳しい修行をしなくても、念仏を唱えれば誰でも救われる」

という宗旨を掲げていることが影響しています。

室町時代に一揆を起こすような状況に追い込まれたのは、農民や国人など、世間的な地位が高くない人が大多数でした。

というか権力者に「ふざけんなテメー!!(物理)」をするのが一揆ですしね。

つまり「浄土真宗がヤバイ」のではなく、「浄土真宗の信徒」と「室町時代に追い詰められた層が一致した」だけの話です。

 


守護や国人、戦火から身を守るため

鎌倉仏教以降、浄土真宗以外にも多数の宗派がありましたが、それらが一揆に結びつかなかったのは、やはり信者の数が大きな要因ではないでしょうか。

本願寺側では、村単位での布教や説法を主軸にしていましたし、村でも村長などを中心に教えを請うていたので、他の宗派より世俗との結びつきが強かったのです。

こうして結束の強まった村が、

・守護や国人などの領主の支配から独立するため

・戦火から自らを守るため

立ち上がったのが、大多数の一向一揆となります。

更には武士階層の中にも浄土真宗の信徒が多かったため、一揆に加わった者は少なくありません(それで話がこじれるケースも……)。

では、実際にはどんなパターンがあったのか、一つずつ概要を見てまいりましょう。

関連記事のあるものはリンクを貼らせていただきましたので、お手数ですが詳細はそちらをご参照ください。

全部書くと、文字数が膨大になってしまうので……。

 


【近江・金森合戦】文正元年(1466年)

近江で起きた史上初の一向一揆とされています。

当時、本願寺法主・蓮如が比叡山延暦寺の圧迫により京都を追い出され、近江に身を寄せていました。

「寛正の法難」ともいいます。

蓮如/wikipediaより引用

その後、蓮如は宗派再興のため大々的に布教をスタート。特に大津周辺は真宗の信徒が激増していきました。

当然、追い出して権力を削ぎたかった延暦寺からすれば、憎々しいことこの上ない話です。

そこで、大津へ向けて僧兵を派遣し、こうして起きたのが近江・金森合戦でした。

他の一向一揆と違って「真宗vs領主」ではなく、「真宗vs天台宗」の戦いだったのですね。

ほんと、こういうのが宗教の怖さで。教えが違うからブッコロ!というのはヤメてほしいにもほどがあります。

お釈迦様も最澄も仏罰当てたいでしょうね。

文正二年(1467年)には本願寺との間で和議が成立していますので、宗教戦争の割には早くケリが付いています。全体的にはついてませんが。

 

【吉崎一向一揆(仮称)】文明六年(1474年)

ものすごく端折ると、後述する加賀一向一揆の前哨戦みたいなものです。

そのためか、この時点での特定する名称がないので、ここでは仮称をつけさせていただきました。

この頃は蓮如が、経覚という法相宗の僧侶に「朝倉氏の圧迫がスゴイので、手を貸してくれんか」と請われ、吉崎御坊(現・福井県あわら市)に滞在していました。経覚と蓮如は親戚でもあります。

蓮如は親鸞の血を引いていることを根拠として、北陸の浄土真宗系寺院を吸収し、勢力を広げていきました。

そして文明五年(1473年)には加賀守護・富樫政親の要請を受け、富樫家の内紛に介入。

政親と対立していた富樫家二十二代当主・幸千代を締め出して(殺害説もあり)、政親に勝利をもたらしました。

蓮如としては、政親の庇護を得るためにやったのですが、政親は逆に

「こんなにまとまった力があるヤツを近所に置いておいたら、今度は、俺の身が危険になるんじゃん!」

と恐れ、蓮如以下の浄土真宗信徒を弾圧して追い出してしまいます。

蓮如に従っていた国人たちを政親の傘下に入れるため、という目的もあったようです。

古今東西、手強い奴は真っ先に殺すか、何とかして味方につけないと痛い目見るもんなんですけどねえ。それが後々響いてくるわけですが……。

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