絵・富永商太

織田家 信長公記

信長とホームレス 常磐御前を殺め呪われた一族を救え|信長公記第122話

2020/03/26

激戦だった前回の【長篠の戦い】から一転。

今回は、信長の日常がうかがえる……かもしれないお話です。

あるホームレスとその集落の民たち、そして信長との興味深いエピソードが記されております。

こんなお話でした。

📚 『信長公記』連載まとめ

 

常磐御前を殺した報いで障害がある

美濃と近江の国境・山中(やまなか)に、身体に障害を抱えたホームレスがいました。

性別は書かれておらず、ここでは仮に「彼」と呼ぶことにします。

山中は中山道の宿場でしたので、織田信長も京都への往来でこのあたりをよく通っておりました。

そのたびに彼が毎回同じところにいるので、信長は不思議に思い、近隣の者に尋ねました。

「普通、ああいった者はあちこちへ移動するものだが、なぜあやつはずっとあそこにいるのか?」

「あの者の祖先が常磐御前を殺したので、その報いを受けているのです。代々生まれつきの障害を持ち、あそこでその日暮らしをしています。このあたりでは”山中の猿”と呼んでいますよ」

常磐御前というのは源義朝の側室で、源義経の母親でした。

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この地を常磐御前が訪れたのは、京に残してきた義経(当時は牛若丸)が東国へ向かったと聞き、後を追う途中だったとか。

そして山中で賊に襲われて命を落とした――そういわれています。

常盤御前(歌川国芳)/wikipediaより引用

現代でも、山中の地には常磐御前の墓がありますね。

他にも常磐御前の墓とされているものはあるので、事実かどうかは不明ですが。

 


「”猿”のために小屋を建ててやってほしい」

信長は、この話を聞いたときはそのままにしておいたようです。

しかし天正三年(1575年)6月26日、急いで京へ向かう途中で、山中に立ち寄りました。

そして「町の者は男女問わず、全員集まるように」と命じます。

信長が【比叡山焼き討ち(1571年)】や【長島一向一揆(1574年)】などで苛烈な処断を下してから、まだわずかな期間しか経過していない頃。

「できるだけ関わりたくない」と思っている者は少なくなかったでしょう。

町人たちが恐る恐る出向いていくと、信長は思わぬ行動に出ました。

木綿二十反を渡し、こう告げたのです。

「この布を売り、その代金の半分で、”猿”のために小屋を建ててやってほしい。それから、近くの者は年に麦を一度、米を一度分け与えてやってくれれば、信長も嬉しく思う」

あまりの意外な情けに”猿”本人はもちろんのこと、町人たちも驚嘆。信長に感謝したといいます。

これには信長の御伴たちも感涙し、”猿”のためにいくらかの米や銭を出し合ったのだとか。

 

舞台が関ヶ原町であることと何らかの因縁が?

当時、木綿は国内生産が始まったばかりで、庶民がしょっちゅう手に入れられるものではありませんでした。

日本の戦国時代では、三河である程度の規模の栽培が始まっていたらしいので、信長はそこから手に入れたのでしょうか。

大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、井伊直虎の先導により木綿栽培を手掛ける場面がありましたね。

おそらく、小屋を建てるくらいの費用は簡単に作れたでしょう。全額を”猿”のために使えと言わず、半分というあたりが心憎い配慮です。

町人たちだって、自分らに何らかのメリットがあれば、働きやすくなるでしょう。

この話は後日談がないので、町人たちがその後もずっと”猿”を養ったかどうかはわかりません。

また、”猿”がどのような障害を持っていたのかも不明です。「代々」ということですから、遺伝性の疾患で身体が不自由だったことは確かだと思われますが。

ここからは私見ですが、ひとつ気になるところがあります。

この“猿”の話が、現在の地名でいうところの不破郡関ヶ原町を舞台としていることです。

 

浅井家の嫡男を処刑していた……

時を遡ること天正元年(1573年)。

浅井氏を滅ぼしたとき、信長は浅井長政の嫡男・浅井万福丸を関ヶ原町で処刑させました。

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具体的な場所は不明ですし、信長がそのことを覚えていたかどうかも定かではありません。しかし……。

仮に覚えていたとしたら、信長は”猿”の祖先の話を聞いて万福丸のことを想起した可能性もあるのではないでしょうか。

「自分の行い(万福丸を殺害)のせいで、自分の子孫が苦しむのはしのびない」

そう思い、相殺するような徳を施そうと考えたのではないでしょうか。

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いくら武士のならいとはいえ「幼くして処刑された万福丸は、自分を恨んだだろう」と感じてもおかしくないし、それでなくても戦で多くの敵兵や一揆勢を殺しているのですから。

あるいは、街道上の要所=今後失うわけには行かない地点での好感度を上げるため――という目的や、ただ純粋に情けをかけたのかもしれませんが。

町人たちにしても、”猿”に同情したのではなく、信長が恐ろしいから言うことを聞いただけという可能性も高いですしね。

なんせ信長が命じるまで、代々”猿”を放置しておいたわけですし。

想像するとキリがありませんが、当時の世相やそれぞれの立場を加味して考えてみると、より楽しめる逸話ではないかと思います。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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