織田家 信長公記

信長から長秀に下された指令 安土に天下一の城を築くべし~信長公記134話

天正四年(1576年)から始まる『信長公記』巻九。

この年1月中旬、織田信長安土山の築城丹羽長秀に命じていました。

いわずとしれた信長の本拠・安土城ですね。

本能寺の変】が1582年のことですから、実際に使われたのはほんの数年なんですね。

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地下一階・地上六階建て 前代未聞の天主閣

安土城の中心となる天主閣(※信長公記では天守閣ではなく天主閣)は、地下一階・地上六階建てという、当時としては前代未聞の高層建築でした。

当然、竣工(完成)までにはそれなりの年月が……と思いきや、早くも同年の2月23日には信長が安土城へ移り住んでいます。

着工からたった一ヶ月程度ですから、まだ完成している建物はほんの一部だったでしょう。

しかしそこは、信長が「友であり兄弟」と評した長秀。

信長が不自由しない程度の屋敷は用意してあったといわれています。

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さすがの予見と手際ですね。まぁ信長が来なければ、別の用途に使えばいい話ですし。

その他、普請の進捗に満足し、信長は長秀に名物「珠光茶碗」を賜ったとか。

室町時代中期の茶人・村田珠光が愛用していたとされる名物の茶碗です。

織田家の家臣筆頭格である長秀が褒美として茶器を与えられたことで、家中での茶器に対する価値が上がるとうい副次的効果もあったでしょう。

信長はこの日、馬廻衆に安土山下に土地を割り振り、それぞれ屋敷を構えるよう命じました。

 


中国からの瓦職人・一観に命じて

少し日が経ち、次の記述は4月1日。

安土城の周辺に石垣を築き始め、信長はその中に天主閣を造るよう命じました。

このために美濃・尾張を始め、越前など、当時の織田領内ほぼ全てから大工・各種職人を招集したといいます。

また、中国人の瓦職人・一観(いっかん)を召し出し、「天主閣は中国風に仕上げよ」と命じたそうです。

どうやら蒔絵技術を応用して瓦に金箔を貼ったようで。

当時の詳細は不明ですが、現在、伊勢安土桃山文化村にあるレプリカもそれをイメージしたものなのか、黄金に輝いております。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ

いつの時代も軍事技術や建設技術の向上は日常生活に直結しますが、なんでもこのときから【燻し瓦(いぶしがわら)】という製法も伝えられ、以降、黒一色に焼かれるようになったと言います(参照:瓦WEB)。

大変だったのは石垣用の石でした。

そもそも規模が大きいので、相当な数の石を運搬せねばなりませんし、重機もない時代ですから当然、凄まじい人数を要します。

主に近江あちこちの山から石垣用の石を引き下ろし、1,000~3,000人ほどの人足を用いて安土山へ運び上げ、選別を行ったといいます。

安土城の建設には、長秀の他にも多くの織田家臣が参加しており、その中の「石エピソード」として『信長公記』に【蛇石】の話が載っています。
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