天正四年(1576年)から始まる『信長公記』巻九。
この年1月中旬、織田信長は安土山の築城を丹羽長秀に命じていました。
いわずとしれた信長の本拠・安土城ですね。
【本能寺の変】が1582年のことですから、実際に使われたのはほんの数年なんですね。
地下一階・地上六階建て 前代未聞の天主閣
安土城の中心となる天主閣(※信長公記では天守閣ではなく天主閣)は、地下一階・地上六階建てという、当時としては前代未聞の高層建築でした。
当然、竣工(完成)までにはそれなりの年月が……と思いきや、早くも同年の2月23日には信長が安土城へ移り住んでいます。
着工からたった一ヶ月程度ですから、まだ完成している建物はほんの一部だったでしょう。
しかしそこは、信長が「友であり兄弟」と評した長秀。
信長が不自由しない程度の屋敷は用意してあったといわれています。
-

丹羽長秀の生涯|織田家に欠かせない重臣は「米五郎左」と呼ばれ安土城も普請
続きを見る
さすがの予見と手際ですね。まぁ信長が来なければ、別の用途に使えばいい話ですし。
その他、普請の進捗に満足し、信長は長秀に名物「珠光茶碗」を賜ったとか。
室町時代中期の茶人・村田珠光が愛用していたとされる名物の茶碗です。
織田家の家臣筆頭格である長秀が褒美として茶器を与えられたことで、家中での茶器に対する価値が上がるとうい副次的効果もあったでしょう。
信長はこの日、馬廻衆に安土山下に土地を割り振り、それぞれ屋敷を構えるよう命じました。
中国からの瓦職人・一観に命じて
少し日が経ち、次の記述は4月1日。
安土城の周辺に石垣を築き始め、信長はその中に天主閣を造るよう命じました。
このために美濃・尾張を始め、越前など、当時の織田領内ほぼ全てから大工・各種職人を招集したといいます。
また、中国人の瓦職人・一観(いっかん)を召し出し、「天主閣は中国風に仕上げよ」と命じたそうです。
どうやら蒔絵技術を応用して瓦に金箔を貼ったようで。
当時の詳細は不明ですが、現在、伊勢安土桃山文化村にあるレプリカもそれをイメージしたものなのか、黄金に輝いております。
いつの時代も軍事技術や建設技術の向上は日常生活に直結しますが、なんでもこのときから【燻し瓦(いぶしがわら)】という製法も伝えられ、以降、黒一色に焼かれるようになったと言います(参照:瓦WEB)。
大変だったのは石垣用の石でした。
そもそも規模が大きいので、相当な数の石を運搬せねばなりませんし、重機もない時代ですから当然、凄まじい人数を要します。
主に近江あちこちの山から石垣用の石を引き下ろし、1,000~3,000人ほどの人足を用いて安土山へ運び上げ、選別を行ったといいます。
安土城の建設には、長秀の他にも多くの織田家臣が参加しており、その中の「石エピソード」として『信長公記』に【蛇石】の話が載っています。
秀吉、一益、長秀らと人足一万人で引き上げる
蛇石とは、信長の甥・津田信澄(織田信勝の息子)が運んできた“とてつもなく大きな名石”のことです。
津田信澄は、あの明智光秀の娘が妻なのですが……それはさておき。
-

津田信澄の生涯|信長の甥で光秀の婿・本能寺の変後に迎えた悲劇的な最期とは?
続きを見る
-

織田信勝(信行)の生涯|信長に誅殺された実弟 最後は腹心の勝家にも見限られ
続きを見る
蛇石があまりの大きさだったため、なかなか安土山の上に引き上げられず、難儀しておりました。
そこに羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の三人が協力し、人足1万人を動員・指揮して、三昼夜かけてなんとか引き上げたのだとか。
このとき、かつて信長が京都で将軍邸を造った際のやり方(本連載『信長公記58話』)を用いたので、現場は大変な賑わいになっていたといいます。
「昼夜、山も谷も動くかと思われるような」とまで書かれていますから、文字通りお祭り騒ぎだったのでしょう。
-

将軍の新御所、信長はどうやって作ったか|信長公記第58話
続きを見る
ちなみにこの蛇石、現代における安土城の調査では発見されていないようです。
これほどかけて引き上げた石が消えてなくなるということも考えにくいですから、今後の進展に期待といったところですね。
信長は安土の普請が順調と判断したためか。京都にも屋敷を建てようと思いたちました。
安土のことは跡継ぎ・織田信忠に指示を与えて任せ、4月29日に上京。
妙覚寺に滞在し、良さそうな土地を探します。
あわせて読みたい関連記事
-

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る
続きを見る
-

豊臣秀吉の生涯|足軽から天下人へ驚愕の出世 62年の事績を史実で辿る
続きを見る
-

織田信忠の生涯|なぜ信長の嫡男は本能寺の変で自害せざるを得なかったのか
続きを見る
-

本能寺の変|なぜ光秀は信長を裏切ったのか 諸説検証で浮かぶ有力説とは
続きを見る
-

丹羽長秀の生涯|織田家に欠かせない重臣は「米五郎左」と呼ばれ安土城も普請
続きを見る
【参考】
国史大辞典
瓦WEB
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)











