織田家の嫡男として着実に実績を重ねていった織田信忠。
【信貴山城の戦い】で松永久秀の討伐も首尾よく済ませたことは以下の記事でご報告させていただきました。
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久秀は、良くも悪くも、京や朝廷に長年、影響を及ぼした人物ですから、その決着を付けた信忠に対しては父の織田信長だけでなく、正親町天皇からも褒美がありました。
今回は信忠と信長の関係、そして秀吉の播磨進出(毛利攻略)を見ておきましょう。
まずは信忠から!
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天皇より与えられた三位中将とは
信貴山城の松永久秀を討った直後の天正五年(1577年)10月12日。
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信忠は信貴山城攻略からそのまま上洛し、妙覚寺に宿泊しました。
そして15日に、久秀討伐の褒美として正親町天皇より与えられたのが「三位中将(さんみのちゅうじょう)」という官位でした。
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中将というのは、天皇の住まいである内裏を護衛する「近衛府(このえふ)」の次官です。
近衛府が左右の二つに分かれていたので、中将の場合は”左(右)近衛中将”と呼びます。
本来、中将の官位は従四位下に相当しますが、信忠は天正五年1月にそれを超える正四位下になっていたため、一段階上である「従三位」と左近衛中将に任じられたのですね。
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こういった場合は「従」が略されて「三位の中将」と呼びます。以降の信忠については「中将信忠」や単に「中将」と呼ぶことも多いですね。
歴史小説などで、天正五年(1577年)以降の織田家において「中将」と出てきたら、信忠を指すと考えていいでしょう。
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「織田氏の代表者として重んじる」
また、従三位は公卿(朝廷の高官)の仲間入りをする位でもあります。
信長に引き続き、信忠は朝廷から「織田氏の代表者として重んじる」と示されたことになりましょう。
これに対し、信忠は侍従の三条公宣(実綱)を通して、天皇へ御礼の太刀代として黄金三十枚を献上しました。
叙任の後は速やかに退出し、安土に帰って信長へ久秀討伐の経緯を報告。17日には岐阜へ帰還しています。
「信長が信忠のことを具体的にどう評価していたのか?」という点はハッキリとはしていません。
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しかし、叱責等があれば伝わっているでしょうから、信長から見ても信忠の働きは悪くなく、「側についていなくてもそれなりのことはやれる」と判断していたはずです。
事実この時期の織田家は信長が安土城で、信忠が岐阜城と離れた場所にいながら、よくある「隠居派vs当主派」といった構図にはなっていません。
※左が安土城で右が岐阜城
それだけ信長が畏怖されていたからともとれますが、信忠自身が父を重んじ、信長もまた息子を信用している態度を見せたからこそ、うまくいったのではないでしょうか。
だからこそ、松永久秀という一癖も二癖もある武将の討伐がスムーズに成功し、朝廷からも親子二代に渡って信頼されたのだと思われます。
一方そのころ織田家の中心的存在となり、さらに上を目指す秀吉にも大きな動きがありました。
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天正五年(1577年)10月23日。中国地方攻略の一貫として、毛利氏の勢力下にある播磨へ出陣したのです。
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