信長が東山で鷹狩に興じ、京都に滞在しながら政務を片付けていた頃。
中国攻略を命じられた羽柴秀吉は、西へ西へと攻め込んでいました。
以下の記事にもありますように、豊臣秀吉(羽柴秀吉)が11月半ばに播磨の大部分を傘下に獲得。
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最後の仕上げにかかろうという頃合いです。
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上月城を包囲しながら福原城も攻略
11月27日、秀吉は熊見川を渡り、上月城を攻めることにしました。
ここは毛利氏方の宇喜多氏の城で、播磨国内では最後の拠点。
毛利氏方にとっても最終防衛ラインであり、秀吉にとっては「ここを攻略すれば播磨を平定したことになる」という重要なポイントであります。
秀吉はほぼ同時に福岡野の城(福原城=作用城)も攻撃させました。
※以下、黄色い拠点が姫路城で、赤い拠点が上月城と福原城
福原城の攻略を請け負ったのは小寺孝高(黒田官兵衛)と竹中半兵衛(重治)。
いわゆる「両兵衛」と呼ばれ、フィクションではたびたび秀吉の軍師とされる二人ですね。
『信長公記』でこの両者が同時に、しかも宇喜多直家と戦う表記があるなんて、なんだか胸アツです。
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しかし、コトはそう簡単ではありません。
さすがに敵も必死で、城を焼き払った後に包囲していたところ、宇喜多直家が小寺・竹中隊の後方を攻撃してきました。
見せしめのため上月城兵を全員処刑
宇喜多直家は、暗殺の名人として有名な武将です。
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直家に対し、小寺・竹中隊だけで応じようとすると挟み撃ちになってしまうため、秀吉が直家勢を攻撃。数十人を討ち取りました。
『信長公記』にはそれ以上の記載がありませんが、撃退できたということでしょう。
攻撃を終え、引き返し秀吉は、上月城の包囲を開始します。
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籠城の備えが整っていなかったのか。あるいは援軍が見込めないと思ったのか。
包囲開始から7日目に城兵が城主・赤松政範の首を持って降参を申し出てきました。
一説には、政範は自ら腹を切ることを決め、
「私の首と引き換えに降伏を申し出でよ。それが叶わなければ最後まで抵抗せよ」
と言っていたとか、いないとか。
しかし秀吉は降伏を許さず、上月城の兵を全員処刑するのです。
さらに、城内の婦女子も備前と美作(みまさか)との国境で磔刑とし、毛利方への見せしめにしたとか。
政範の首は安土に送り、信長の実検に供しています。
そして秀吉が上月城へ入ると、また新たな有名武将が登場するのです。それが……。
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