豊臣 秀吉の出世物語があまりに華々しいせいか。
同じく【足軽→日本のTOP総理大臣】に4度も立ったにもかかわらず、その点、ほとんど注目されていないのでは?という人物がおります。
明治42年(1909年)10月26日に亡くなった伊藤博文――そうです、日本初の総理大臣にまでなった人物です。
しかしこの伊藤、ちょっと誤解が多い。
歴史の授業では、明治時代で少し経ってから名前が出てくるため、元々が
「長州藩士であり幕末期に活躍した松下村塾生の一人だった」
と言うと、結構な割合で『えっ!?』と驚かれます。
幼き頃より松下村塾で学び、吉田松陰にも認められていたのです。
しかし、その一方で、当人は明治天皇に本気で呆れられるほどの女好きであり、「当時の偉人はみんな妾を持っていた」といったレベルではなく、ある種の病気なほど誰彼構わず手を出すことで非難もされていました。
また若い頃は激しいテロ行為を重ねた危険性もあり、全てが無批判に讃えられるような歴史でもありません。
本稿では、伊藤博文の経歴事績を中心に追っていきますので、その他のことは以下の記事をご参照お願いします。
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※TOPの画像は、左から長州五傑時代(上段右)/志士時代/高杉晋作と共に映る伊藤博文(右)
松下村塾のスターたちよりちょっと歳下
後に伊藤博文となる赤ん坊は、天保12年(1841年)、周防国熊毛郡束荷村(現山口県光市)に生まれました。
父は林十蔵。母は琴子。
長州藩士と言えば真っ先に『松下村塾』を思い浮かびますが、

吉田松陰/wikipediaより引用
伊藤は彼らの中心世代より若干歳下になります。
【吉田松陰】11歳年長(天保元年誕生)
【桂小五郎(木戸孝允)】8歳年長
【入江九一】4歳年長
【山県有朋】3歳年長
【高杉晋作】2歳年長
【久坂玄瑞】1歳年長
【吉田稔麿】同年(天保12年誕生)
錚々たるメンバーが並びますね。
彼ら松下村塾生の特徴は、幕末動乱期での死亡率が非常に高いことが挙げられます。
一方、生き永らえた者は、それこそ日本のトップに上り詰めるような大出世を果たした者もいます。
赤ん坊の頃の話に戻りましょう。
それは夫妻にとって待望の子でした。
二人の間には結婚後3年間子供が出来ず、母がさんざん神頼みして誕生したのです。
欧米の国外進出によって、世界が動乱の渦に巻き込まれていった時代。
彼が産声をあげる前年、お隣、清国ではアヘン戦争が始まり、日本国内でも天保の改革、萩では藩政改革が行われておりました。
ペリー来航後 父が足軽の家に養子入り
嘉永6年(1853年)。
幼い彼が萩へ移住した四年後、黒船が浦賀に来港しました。
この頃から日本は、いわゆる幕末期へと突入。
翌安政元年(1854年)正月、父・十蔵は萩藩の中間・伊藤直右衛門の養子となりました。
彼も伊藤姓の足軽となります。
足軽ながらも藩士の一員となった伊藤は、久保五郎左衛門の塾に通えるように。
成績優秀。
幼少の頃より才気あふれる存在でしたが、一人叶わない少年がいました。
吉田稔麿(としまろ)です。

吉田稔麿/wikipediaより引用
吉田は、松下村塾において高杉晋作や久坂玄瑞と並ぶ俊英ですから、仕方のなかったことかもしれません。
黒船来航で世の中が騒然とする中、長州藩も相模湾の警備を実施。
安政4年(1857年)、伊藤は来原良蔵(くるはらりょうぞう)に教え受けるようになり、来原は、萩に戻る伊藤に紹介状を書きました。
「吉田松陰の松下村塾でさらに学べ――」
入塾翌年 京都派遣メンバーに推挙される
こうして伊藤は松下村塾に参加することになりました。
松下村塾に関してよくある誤解の一つに【身分を問わない】というものがあります。
確かに現代においては、そちらの方がイメージ良く、また面白い存在でもあるものです。
しかし実際は、構成員を見る限り武士階層が優遇。「受講生すべて」が平等に扱われていたわけではありません。
元々は武士ではない――武士としても最下層である伊藤も、やはり格差に直面しました。
単純に言えばお金がないワケで。旧知の吉田稔麿から書物を譲り受ける等して、乗り切ります。
そして入塾した翌年の安政5年(1858年)には、吉田松陰の推薦メンバーの一人に選ばれ、京都に派遣されました。
いったい松陰は、伊藤のことをどう思っていたのか?
久坂宛の手紙によるとこうあります。
「利介(伊藤のこと)亦進む、中々周旋家になりきふな」
【意訳】伊藤はまた学問が進歩した。なかなかの交渉役になりそうだ
「才劣り幼きも、剛直にして華なし、僕頗る之れを愛す」
【意訳】才能は劣り学問でも未熟だが、剛直な性格で地味だ。僕はこの弟子をとても愛している
こうした評価は、伊藤が当時16歳、高校生程度であったことも考慮すべきでしょう。
安政の大獄で師匠は処刑され
京都での伊藤は、山県有朋と親交を結びました。

左から山県有朋、木戸孝允、伊藤博文の像
そのあと来原に率いられ、安政6年(1859年)まで長崎で修学。
江戸でも修行に励み、来原の義兄・木戸孝允(桂小五郎)の従者となって、志道聞多(井上馨)とも親交を結んでいます。
後に日本を動かす藩の中心メンバーと関わっていたんですね。
しかしこの年の秋、松下村塾にとっては大激震が走ります。
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処刑された原因は、
・外国への密航を企て
・幕政を批判したから
と誤解されがちです。
確かに、そうした要素もあったかもしれませんが、決定打は
・老中である間部詮勝の暗殺計画を建てていた
・しかもそれを自白した
ことでした。
そもそもこうした計画は松陰の暴走で、塾生たちも困り果て、止めに入ろうとしたほどです。
が、時すでに遅し。江戸にいた伊藤は、師匠の遺骸を引き取りました。このとき彼は、まだ18歳。
そして松陰の死から、松下村塾の面々は様々な道を歩むようになります。
彼らの存在アピールに欠かせなかったのが、より激しい攘夷です。
文久2年(1862年)、松下村塾生は【公武合体論】を主張する長井雅楽の暗殺を画策。
そして同年8月、伊藤にとって師であった来原が自害してしまいます。来原は、長井雅楽の政策を支持しており、それが通らないことに苦悩していたのです。
過激化していく時勢の中で、伊藤も傾倒。
この年の12月には、品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加しています。
そこで山尾庸三と塙次郎忠宝・加藤甲次郎を斬殺し、21歳にして、尊皇攘夷派の過激な活動家になったのでした。
攘夷よりも、海外へ
しかし伊藤は、他の松下村塾生とは異なる道を歩むことになりました。
前述の通り松下村塾生の主力は、激しい攘夷活動に打ち込み、その結果、明治維新まで生き延びられずに斃れた人物がたくさんいます。
久坂玄瑞や吉田稔麿のように。

久坂玄瑞/wikipediaより引用
伊藤がこうした同門と袂を分かった一因が、吉田松陰以外に来原良蔵という師匠がいたことも大きいようです。
文久3年(1863年)、伊藤は尊皇攘夷の支持者であるということから、準士雇(じゅんさむらいやとい)に出世しました。
このように、長州藩で出世するためには攘夷思想=外国排除が必須のはずです。
しかし、伊藤には生涯の師と慕っていた来原から受けた教えもありました。
それが実ったからこそ、イギリスという異国へ留学することになるのです。
1863年、井上馨と共にイギリスへ。
久坂は「攘夷より他に道はない」と止めましたが、伊藤の決意は固いものでした。
このときの留学生は【長州五傑(長州ファイブ)】と称されます。
【長州五傑】
・遠藤謹助(上段左)
・野村弥吉(上段中央)
・伊藤俊輔(上段右)
・井上聞多(下段左)
・山尾庸三(下段右)
ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに在学した伊藤の留学期間は半年程度。その後、イギリスの軍艦で帰国することになりました。
ヴィクトリア朝大英帝国の国力をまざまざと見せつけられ、このときから開国派に転換します。
長州藩の危難
帰国した元治元年(1864年)当時、長州藩ではさらなる大激動に見舞われておりました。
池田屋事件の一ヶ月後であり、【禁門の変】が起こる直前のことです。
伊藤と親しくしていた吉田稔麿も、同事件で斬殺されておりました。
こうした一連の事件で、松下村塾の俊英たちは、久坂玄瑞、入江九一と、次から次へと散ってゆきます。
しかも長州藩は孝明天皇から激しい憎しみを買っていたばかりか、今度は下関から攘夷を繰り返して連合艦隊に反撃され、いよいよ窮地に陥るのです(下関戦争)。
このとき伊藤は通訳として奔走。長州藩とイギリスは接近するようになります。
ライバルのフランスが幕府を支持していることから、イギリスは倒幕勢力に着目していたのです。
さらには、この和平交渉において、伊藤は将軍と天皇の攘夷命令を相手に渡し、これを機に、各国は幕府に賠償金支払いを迫るようになります。
「賠償金に圧迫された幕府さえ倒れれば?」という待望論が広がるキッカケにもなりました。
そして度重なる困難の中、長州藩では幕府への恭順も辞さない「俗論派」が台頭。強硬に反幕府と攘夷を唱える「正義派」と対立します。
【正義派vs俗論派】
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結果は「正義派」が勝利します。
高杉晋作の決起に駆けつけたことを、伊藤は生涯の誇りとしました。
が、英国帰りで開国に傾いていた彼にとって、強硬な攘夷が優勢になることは頭の痛いことでもありました。
さぞかし複雑な胸中であったでしょう。
慶応3年(1867年)、伊藤は準士雇から士雇に出世します。
幾度かの危機を乗り越える中、倒幕への思いが強まっておりました。
前年、薩長同盟を結んだ薩摩藩、坂本龍馬の属する土佐藩ともども、倒幕への志を練っていたのです。
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とはいえ、第二次長州征伐、戊辰戦争においてはさして活躍することもありませんでした。
武器調達といった裏方に携わるだけで、むしろ暇をもてあましていたほどだったのです。
伊藤の出番があったのは、神戸事件や堺事件の解決の場でした。
新政府、始動
明治維新は、なんとも不思議なものです。
幕末に志士として名を成すには攘夷が必要だったのに、新政府となってからは国際社会と交渉する力が問われるわけですから。
その点、イギリス留学の経験がある伊藤は、新政府から重用されます。
明治元年(1868年)。
伊藤博文と改名した彼は、外国事務掛、兵庫県知事と大抜擢を受けました。
さらに翌明治2年(1869年)には大蔵少輔兼民部少輔となり、同四年は租税頭、工部大輔に累進。
この年の10月、岩倉使節団にも参加しました。
木戸孝允や大久保利道と並ぶ特命全権副使であり、今度は2年に及ぶ長期間で欧米視察を遂げるのです。
伊藤の真価は、博文と改名してから発揮されました。
詳細は後述しますが、初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法成立、日清戦争・日露戦争と二度の苦難を乗り切ります。
足軽の子から一国のトップにまで成り上がった――とは、まるで豊臣 秀吉ばりの出世ストーリーでしょう。
ただし、この使節団、問題がなかったとも言い切れない部分がありまして。
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左から岩倉使節団の木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通/wikipediaより引用
明治6年(1873年)に使節団が戻ると、早速、政府内では【征韓論争】が勃発します。
伊藤はこれに対して、岩倉具視・木戸・大久保らとともに、「内治優先」を掲げ、否定の立場を貫きました。
まだまだ国内統治の整備および近代化が優先されるという考え方です(「明治六年政変」)。
伊藤とともに近代化に貢献したのは、大隈重信でした。

若かりし頃の大隈重信/wikipediaより引用
ただし大隈は、実力抜群ながら伊藤とはたびたび意見の相違もあり、政府への出入りを繰り返すような状況です。
薩長土肥の藩閥政治の中、トップクラスの大隈がこのような状態は、惜しまれることではありました。
もう維新の立役者たちはいない
征韓論がおさまると、ひとつの時代が終わりを告げました。
維新三傑である木戸孝允は病死。
大久保利通は暗殺。
維新三傑が立て続けにいなくなり、参議兼内務卿となった伊藤らの前には、問題だらけの新政府が残されたのでした。
藩閥政治への不満は大きく、士族の反乱ばかりでなく自由民権運動も盛んになり、明治政府の統治に不満を持つ庶民が、盛んに声援を送るような事態となっていきます。

自由民権運動演説中に襲撃された、板垣退助を描いた錦絵/wikipediaより引用
そんな最中、明治12年(1879年)、伊藤は「教育議」を上奏、教育令を発布します。
明治14年(1881年)には、盟友である大隈重信と袂を分かちました。
日本の立憲体制をどう作るかにおいて、意見が対立したのです。大隈の急進性に警戒を抱いた伊藤は、彼を政界から追放するのです(「明治十四年の政変」)。
大隈を立ち去らせたあと、伊藤は明治15年(1882年)から明治16年(1883年)にかけて、憲法制度調査の任を帯び、再び渡欧。
プロイセンで憲法や内閣制度を学んで、帰国後は内閣制度や憲法制定に見聞を活かしました。
さらに明治17年(1884年)には、華族令も制定されます。
伊藤は伯爵となり、他の下層武士出身である政府官僚らも華族に列しました。
新たな身分秩序はこうして誕生したのです。
幕末期の活躍だけはなく、こうした制度が政府の格付けにおいて役割を果たしました。
初代内閣総理大臣、憲法への情熱
明治18年(1885年)、形骸化しつつあった太政官制に代わり、内閣制度を導入。
名門公卿だった公爵・三条実美との争いに勝った伊藤は、初代総理大臣として第一次伊藤内閣を組織します。

三条実美/wikipediaより引用
激務に拍車がかかりました。
明治19年(1886年)、井上毅らと共に憲法草案に着手。
明治21年(1888年)、プロイセンの影響が濃い大日本憲法草稿ができあがりました。
そして同年、枢密院を開設すると、初代枢密院議長に就任するため首相を辞任しました。
背景には、外相・井上馨によって推進されていた条約改正交渉が、政府案漏洩事件をきっかけに、激しい攻撃にさらされたことがあります。
この事態を収拾するため、薩摩閥の黒田清隆に首相を譲ることにしたのです。
伊藤は、枢密院議長として憲法草案の最終審議に尽力しました。
この憲法制定における努力が認められ、伊藤は明治天皇の深い信任を獲得、「元老」として政府首脳の中でも一段高い位置に上り詰めました。
かくして大日本帝国憲法は、黒田清隆内閣のもとで発布されます。
明治22年(1889年)のことでした。
明治23年(1890年)11月、帝国議会が開設されました。
伊藤は閣外におりましたが、それでも立憲制運用への情熱は絶えません。
第一次山県有朋内閣・第一次松方正義内閣においては、貴族院議長または枢密院議長として、摩擦を起こしかねないほど強硬な助言や指導を行いました。
『憲法義解』も刊行し、並々ならぬ情熱を発揮したのです。
二度の戦争
明治25年(1892年)。
政党結成は断念しつつも、第二次伊藤内閣が結成。
日清戦争と条約改正という困難を乗り越えてゆきます。
彼は挙国一致内閣を目指しました。
自由党の板垣退助と改進党・大隈重信を加えた内閣を目論んだのですが、板垣のみにとどまり、大隈は拒否。
明治31年(1898年)での第三次伊藤内閣では、挙国一致内閣の目標をさらに追いかけます。
新党結成に意欲を燃やし、結局は、山県有朋の反対で挫折します。
そして明治34年(1900年)9月。
立憲政友会が結成されると、伊藤が総裁に就任し、同会を率いた伊藤は、実に四度目の四次伊藤内閣を組織します。
が、山縣有朋とその派閥により苦境にたたされ、わずか7ヶ月の短命内閣。伊藤は党の組織化に苦しみ、彼の手から離れていきますが、大正デモクラシーではその存在感を発揮しています。
日本政府は、外交面で難しい立場に立たされておりました。
日英同盟推進か日露協商打診か?
意見が対立し、伊藤はアメリカとヨーロッパに渡って、ロシアに日露協商を打診したのです。
が、政府は日英同盟交渉を進行しており、伊藤の目論見は失敗に終わります。
明治36年(1902年)7月、伊藤は枢密院議長となり、政友会総裁辞任を余儀なくされます。
このころから、伊藤は慎重にロシアとの交渉、そして開戦にあたる決定を、他の政府首脳とともに行いました。
暗殺
明治38年(1904年)から明治42年(1906年)にかけての三年半、伊藤は初代韓国統監として韓国の併合に立ち会います。
伊藤は当初、必ずしも併合に賛同していたわけではありませんでしたが、独立を目指す義兵運動が高まる中で、それもやむなしと考え方を変えてゆきました。
韓国併合はその地に住む人にとっては、痛みを伴うものでもあったのです。
統監を辞した後、極東問題についてロシアと協議するため、伊藤は満州に赴きます。
そして明治42年(1908年)10月26日。
ハルピン駅において、韓国人の安重根が伊藤を狙撃。凶弾に倒れ、伊藤は世を去りました。享年69。
死去に際しては従一位に叙せられ、国葬をもって見送られています。
維新志士から初代内閣総理大臣となった伊藤博文。
その国際性は、吉田松陰のみならず来原良蔵という師匠がいたことも大きかったといえましょう。
色々と振れ幅の広い人物ではありますが、明治日本を導いた一人でありました。
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【参考文献】
伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男 (講談社学術文庫)』(→amazon)
『国史大辞典』
他














