明治27年(1894年)7月9日は徳川慶喜の正妻・一条美賀子(美賀君)が亡くなった日です。
大河ドラマ『青天を衝け』では慶喜との夫婦仲がうまくいかず、嫉妬のあまりに短刀を持ち出し、刃傷騒動を巻き起こす――なかなかキャラの濃い方でしたが、実際そんな史実があったのか?
そもそも徳川慶喜は、正妻に対してあんなに冷淡だったのか?
数多の疑問が湧いてきたかもしれません。
実のところ、慶喜の周囲にいる女性には興味深いエピソードが多いものです。
そこで本稿では美賀君(一条美賀子)はじめ、以下の女性たちに注目し、
・吉子(母)
・得信院(若き祖母)
・千代君(最初の許嫁)
・お芳(辰五郎の娘)
・信と幸(側室)
・篤姫(家定正妻)
・和宮(家茂正妻)
徳川慶喜とのエピソードに注目してみたいと思います。

美賀君(1850年代に撮影)/wikipediaより引用
慶喜はイケメンだった?
徳川慶喜はイケメンであった――。
慶喜の女性関係を考察していく上で、ここはまず押さえておきたいところ。
大奥がざわつくこともあった。ゆえに13代将軍・徳川家定が慶喜に反感を抱いていた……そんなゴシップ情報もあるほどです。
女性たちだけではありません。
フランスから贈られた軍服も着こなす慶喜に対し、来日した外国人も感心。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用
輝く瞳、形のよい鼻、上品に微笑む口元、健康的な肌などは、貴族的でまさしく紳士である、と複数名が書き残しております。
外見だけではありません。
慶喜の気品を保ったのは、母親の存在も大きかったことでしょう。
吉子(演:原日出子さん)の出自は、慶喜に大きな影響を与えました。
誇り高き母・吉子
徳川斉昭の妻であり、慶喜の母である登美宮・吉子。
有栖川宮織仁親王の女王であった彼女は、当時ならば「薹(とう)が立った」と囁かれる27歳で嫁ぎました。
むろん恋愛結婚などではなく、徳川光圀以降、尊皇を掲げていた水戸藩ならではの人選です。
そんな彼女の血筋を尊んだのか。
暴れん坊として知られる斉昭は側室を置かず、夫婦仲は睦まじかったとされます。

徳川斉昭/wikipediaより引用
しかし彼女は、ただおしとやかな女性でもありません。
あるとき、乗馬の練習をする吉子に対して、斉昭はゲスい冗談を言いました。
「女が馬に乗るときは、鞍に棒を立てたら落ちないだろう」
すると彼女はこう返したのです。
「御前は前壺に穴を開けたらよろしおすなぁ」
夫の女癖の悪さを皮肉って嫌味で返したのです。咄嗟にこんな言葉が出てくるとは、頭の回転が良いだけでなく、夫の性癖を快くは思っていなかったのでしょう。

吉子女王/wikipediaより引用
なんせ斉昭は「側室は置かないが、お手付きをしないとは言っていない」というような、とんでもない品行の持ち主でした。
斉昭が大奥で嫌われることとなった事件があります。
不犯の誓いを立てていた女中・唐橋に対して、強引に性的な関係を持ったのです。唐橋を悪女とする見方もありますが、大奥やその他女性の反応からしてそうではないでしょう。
例えば、斉昭が水戸の偕楽園で梅見をする際、女中たちは未婚の証である丸髷を結いました。
既婚のあかしである島田髷にしておくと、斉昭が手をつけてしまうと噂されていたのです。
吉子は賢夫人らしく嫉妬を隠していても、本音が漏れることもあったのでしょう。
そんな母と慶喜が、母と子としての時間を過ごせたのは、明治維新以降のことでした。
幼少期から将軍の座を追われるまで、慶喜は長く母と離れて生きていたのです。
斉昭は、江戸での生活が悪影響を及ぼしかねないと考えており、我が子を水戸に送っておりました。慶喜も生後七ヶ月で江戸を離れています。
慶喜は父の厳しい教育方針で、さぞや生真面目に育った――と思われそうですが、実際そうでもありません。
戦ごっこ、火事ごっこが大好きで、勉強は嫌い。
奥女中たちは「七郎麿様は何をするにも強気で困った……」とぼやいていたとか。
猫を木に縛り付けて、手裏剣の的にしていたというのですから、相当な暴れん坊の側面もあったようです。
そんな慶喜は、11歳で江戸に向かいます。
将軍・徳川家慶にとって、慶喜は甥にあたります。
家慶正室の喬子女王(たかこじょおう)が、慶喜の母・吉子の姉にあたる人物でした。
あこがれの若き祖母・徳信院
江戸についた慶喜の面倒を見たのは、慶喜の養祖母となった徳信院でした。
彼女は伏見宮貞敬親王の王女であり、名は直子女王(つねこじょうおう)。
11歳のときに京都から一橋家へ嫁いで来ました。
一橋家7代目当主・徳川慶寿(よしひさ)の正室となったのです。
しかし、夫は25歳の若さで早逝してしまい、彼女は出家して「徳信院」となりました。
慶寿が末期養子とした昌丸も夭折したため、その後継者に取り立てられたのが徳川慶喜です。
つまり彼女は18歳にして祖母となり、11歳の孫(慶喜)を見る立場となったのです。
幼くして母と引き離された慶喜にとって、この徳信院こそ母に代わる存在。
大河ドラマ『青天を衝け』で美賀君が嫉妬に狂っても不思議ではない年齢だったんですね。
一人目の許嫁・千代君
そんな慶喜は、12歳で許嫁が選ばれました。
美賀君ではありません。
一条忠香の娘・千代君です。
忠香の娘・一条秀子は、継室として将軍・徳川家定に嫁いでいました。

徳川家定/wikipediaより引用
よって慶喜と家定は、この縁談がまとまれば同じ姉妹を妻にする予定だったのです。
しかし、ここで不幸が起きます。
慶喜に嫁ぐ予定だった千代君が、天然痘に罹患して痘痕(あばた)が残ってしまい、婚約が解消されてしまうのでした。
そこで菊亭家から選ばれたのが美賀君です。一条家に養女として入り慶喜に嫁ぐこととなりました。
千代君については、おどろおどろしい逸話が残されております。
そもそも痘痕は残らなかったのに、噂を広めた者の画策で婚約解消され、絶望のあまり病死したとか。
父と慶喜を恨み、祟りを為すと自刃したとかいうものです。
慶喜が将軍でなくなったのも彼女の祟り……というのは単なる噂話。
その後、彼女は輝子と名乗って越前国・毫摂寺に嫁ぎ、明治13年(1880年)に亡くなっています。
正室・美賀君のゴシップ
徳川将軍の正室は公家から迎えるケースが多く、慶喜と美賀君も、そうした慣習によって成立した夫婦でした。
しかし結婚当初から心中は複雑だったことでしょう。
彼女は慶喜にとって2人目の許嫁。
年齢も2歳上。
そのせいか慶喜とあまりに親しい徳信院の存在に悔しがるのですが、これは何も美賀君だけが悪いとも言い切れないところでしょう。
大河ドラマ『青天を衝け』でもありましたように、慶喜は徳信院と仲睦まじく謡曲を歌い、その声が聞こえてきたりするのです。
慶喜は正室が待つ場には戻らず、表向きはずっと職場に泊まり続けるような生活を送りました。
ただでさえ政局が大変な時期。
しかも徳川家定に子ができないため、次の将軍を誰にするかで大名たちが揉めていた時期にこの有様です。
そんな夫に辛抱しきれなくなった美賀君は、ついには狂言自殺まで演じるようになり、そのゴシップは書状にも残されるほどでした。
「あの御正室、この大変な時に徳信院に怒るわ、騒動まで起こしているそうですよ。何やってんだか」
「まあ仕方ないんじゃないですか。だって徳信院の方がずっと御正室よりも器量よしですからね。いろいろ言いにくい理由もあるんじゃないですか」
こんなことを一橋派の大名同士が書状で噂をしていたのです。
確かに美賀君は嫉妬深いところがあったのでしょう。

美賀君(一条美賀子)/wikipediaより引用
ただ、皮肉なことに彼女のこうした噂が残されているのは、このあたりまで。
将軍継嗣問題に敗れて謹慎生活とされた慶喜は注目されなくなり、その正室・美賀君の不品行も噂のタネとされなくなるのです。
『青天を衝く』においては、二人の関係はそこまで深く描かれませんでした。また役者の年齢差も不自然ではありました。『逆賊の幕臣』でも慶喜夫妻の関係は描かれないでしょう。そこをふまえ補足しておきましょう。
将軍就任後の慶喜は、京や大阪へ向かいました。
そんな将軍時代に誕生した子は、正室・美賀との間にできた一女のみ。
安政5年(1855年)に生まれたこの女児は残念ながら夭折を遂げてしまいます。
明治の世となった頃には、当時「お褥下がり」(寝室のお役目御免)とされた30歳を超え、慶喜と側室の間に大勢の子が生まれる様子を、正室としての威厳を保ちつつ見守る人生が待っていました。
なかなか苦しい立場ですよね。
それでも慶喜は、彼女が乳がんを患うと最先端の治療を受けさせていたようです。
普通の夫婦らしい愛はなくとも、敬意はあったのでしょう。
美賀のお付きであったおすがは主人に忠実に仕え、側室たちとの交渉にあたり、正室の威厳を保つことに腐心していたとされます。
開陽丸にのりこんだお芳
江戸の将軍といえば、大奥の印象が強い。
さぞやモテモテハーレムライフを送ったのだろうと想像してしまいます。
例えば徳川家斉は尋常ならざる子沢山で、婚礼を諸大名に押し付けた結果、政治が混乱したほどでした。

徳川家斉/wikipediaより引用
慶喜は、正室1人、側室3人とされています。
江戸にいる期間も短く、政治に神経をすり減らしていたことを思えば、この少なさは当然の帰結でしょう。
そもそも慶喜は、大奥の人員削減案を打ち出し、嫌われていたという経緯があります。
では女性関係が全く無いかと言ったらそうでもなく、将軍として京・大阪へ向かう最中に、お手つきの女性が数名いたとされます。
その一人が、一橋家に女中奉公していたお芳という女性でした。
2018年大河ドラマ『西郷どん』では薩摩の遊女出身とされましたが、あれはフィクションでの設定であり、かつ相当な無理があります。

新門辰五郎/wikipediaより引用
慶喜は辰五郎に「ジジイ」と呼びかけるほど、気に入っていました。
そんな粋な江戸っ子の娘、小股の切れ上がった美女のお芳を、慶喜はことのほか可愛がったと思われます。
というのも明治以降に暇をいただいた慶喜周辺の女性の中でも、お芳には逸話が残されているのです。
その一つが鳥羽・伏見の戦いでの話でしょう。
戦いに敗れた慶喜は、松平容保らを引き連れて軍艦・開陽丸で江戸へ逃げ戻ってしまいます。

大坂から船で脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年)/wikipediaより引用
その際、小舟が軍艦に近づいてきました。慶喜の近習が「いくらお手つきとはいえ、軍艦に乗り込んでくるとは何事か!」と刀を抜き追い払おうとしたのですが、結果的に乗船できました。
ドタバタとした敗走の最中、場違いな美女がいることに、周りは呆れるやら、見惚れるやら。
お芳の父・辰五郎は、慶喜が置いて行った家康以来の「金扇馬印」を守り、陸路江戸へと向かっていたのです。
このお芳は、側室とされることもありますが、愛妾、お手付きといった表現もなされます。
正式に妻帯した女性ではなかったようですね。
明治以降、彼女は他の女性と同じく家に戻されました。
子沢山の側室・信と幸
明治時代ともなれば将軍でもない慶喜ですが、徳川家の血を絶やすわけにもいきません。
世継ぎを残すためにも側室が必要だったのは仕方のないことでしょう。
将軍職や政争のストレスから解放されたのか。
彼は趣味に打ち込むとともに、側室とされた新村信と中根幸との間に10男11女をもうけています。
夭折した子たちを含めると、さらに3人多いとの説も。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用
側室や女中は、慶喜が趣味としていた写真のモデルも務めていました。
しかし、将軍の寵愛を受けたこの二人は、側女中という低い身分であり、我が子からすら呼び捨てにされてしまいます。
教育方針にも口を出せず見守るしかなく、正室・美賀との間にも、身分の壁がありました。
慶喜を嫌った天璋院と和宮
イケメンで上品で聡明――だからといって誰からもモテモテになれるわけじゃないのが世の常。
慶喜は大奥からは嫌われていました。
傾く幕府を立て直すためにも、大奥の予算を削減したい。そんな方針を打ち出したのですから至極当然のことと言えましょうか。父・斉昭とは別の理由で嫌われています。
当時、大奥の頂点に立っていたのは二人の女性でした。
一人目は和宮。
攘夷を強硬に主張した孝明天皇の妹です。

和宮親子内親王/wikipediaより引用
慶喜にも攘夷を促しますが、そう簡単に引き受けられるわけもありません。
なんせ幕府はフランスの支援を受けているのです。
そもそも彼女は、夫・徳川家茂が亡くなり、京都へ戻ってもよさそうなものを、それが実現できていないストレスがありました。
もう一人の女性が天璋院(篤姫)です。

篤姫/wikipediaより引用
倒幕に立ち上がった実家の薩摩藩を憎むほど、徳川の女として生きる誓いを立てた彼女。
前述の通り「倹約しなさい」とうるさい慶喜が、同時に「美賀君のために部屋を開けて欲しい」などと要求することに対して怒りを覚えていました。
そんな慶喜がおめおめとフランス軍服を着て、大坂から逃げ帰ってきたのですから、大奥は塩対応となります。
「倹約していて、余った布団もありません」
そう言われて毛布にくるまるしかない慶喜。
その後も天璋院と和宮、そして大奥は、慶喜に対して何かと文句をつけています。
洋服はいかん、書状のこの文言は何だ……。
こう書くと心が狭く、諸事が何かと停滞してしまいそうですが、彼女らはきっちりと実務はこなしています。
江戸城の無血開城に一役買ったのも和宮だとされています。
彼女が朝廷へ謝罪の使者を送っているのです。
天璋院篤姫は、実家の薩摩藩から嫌がらせのようなことをされております。
とにかく幕府と戦争をしたい薩摩藩の西郷隆盛らが、江戸でテロ行為を起こさせていたのです。
ついには、
「江戸の街に火をつけて回っている連中は、天璋院様が目当てらしいぜ」
「マァ御台所っていっても、薩摩の姫だもんな。そのくれぇやらかすかもしれんな……」
こんなことを江戸っ子から言われ、天璋院がどれほど心痛めたことでしょうか。
慶喜が上野・寛永寺で謹慎して以降、天璋院と和宮は、慶喜と顔を合わせることはありませんでした。
それでも天璋院は、徳川の誇りを賭けて戦う【奥羽越列藩同盟】に向けて、激励の書状を送っています。
彼女は徳川に忠義を尽くして生き、大奥もそんな彼女を称えていました。だからこそ慶喜個人に対して良い感情を持てなかったのでしょう。
天璋院が養育した徳川家達は、こう評していたそうです。
「慶喜は徳川家を滅ぼした人。私(家達)は徳川家を再興させた人」
和宮は明治10年(1877年)、天璋院は明治16年(1883年)に世を去っています。
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【参考文献】
小西四郎『徳川慶喜のすべて』(→amazon)
菊地明・伊東成郎『徳川慶喜101の謎』(→amazon)
徳川慶朝『徳川慶喜家へようこそ』(→amazon)
家近良樹『その後の慶喜』(→amazon)
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon)
高野澄『徳川慶喜』(→amazon)
他



