今回の『信長公記』解説は「巻十二 第十七節」で【有岡城(伊丹城)の攻略】に関するお話です。
荒木村重に裏切られてから長期間に渡って続いていた有岡城の包囲。
天正七年(1579年)の秋、ようやく事態が動き始めました。
複数の足軽部隊長を寝返らせ
事態の硬直を破ったのは織田家の重臣としてお馴染みの滝川一益です。
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滝川一益の生涯|織田家の東国侵攻で先陣を担った重臣は秀吉の怒りを買って失脚
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まずは佐治新介を仲介として、城内の中西新八郎を調略。
織田方につかせると、今度は10月15日、中西新八郎が複数の足軽部隊長を織田方に寝返らせ、上臈塚の砦(現・墨染寺付近)に滝川軍を引き入れることに成功したのです。
滝川軍は多くの敵を切り捨て、生き残りは有岡城に逃げ込んでいきました。
これにより伊丹の町も織田方の占領下となります。
彼らは城下にあった武士の屋敷を焼き払って有岡城を裸同然にし、落城も間近という状況にまで追い込みました。
村重の義弟・野村丹後も切腹
城主の村重が、すでに同城から逃げ出したことは以下の記事に詳しくありますが。
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妻子家臣を残して村重が有岡城から脱出|信長公記第185話
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滝川軍に攻め込まれて屋敷を焼き払われ、城に付随する各砦の荒木軍も戦意を失くしていったようです。
こういうときこそリーダーたる城主の出番なんですけどね。
居ないんですから仕方ない。岸の砦(現・猪名野神社付近)にいた渡辺勘太夫は、もはやこれまでと織田軍へ寝返ろうとして、多田(川西市)まで撤退しました。
しかし、事前の連絡がなかったため、織田方から怪しまれ、切腹を命じられたといいます。不運すぎる……。
また、鵯塚(ひよどりづか)の砦(現・市立有岡小学校の南)も織田軍に攻め込まれてほとんどが討死。
野村丹後という者が雑賀の兵と共に守り、途中で降伏しようとしたのですが、こちらも許されず切腹を言い渡されました。首は安土へ送られたようです。
野村の妻は村重の妹で、彼女も深く嘆き悲しみ、目も当てられないほど哀れな姿だったとか……。
事前に「降伏したい」という意思を伝えていれば、また違った道もあったかもしれません。
ともかく「ここぞ!」とばかりに、織田軍はさらに攻勢を強めていきました。
「降参するので、命だけは助けてほしい」
有岡城の間近へ迫った織田軍は、坑夫に隧道を掘らせ、攻めることにしました。
城内からは
「降参するので、命だけは助けてほしい」
という願い出がありましたが、構わず攻め続けたそうです。
おそらく、以前、信長が様子を見に来たときや、慰労金を配ったときなどに、「降伏は認めないように」と通達されていたのでしょう。
一方、10月24日には丹後・丹波を平定し終えた光秀が安土へ帰還しました。
報告と共に、しじら(綿織物)100反を献上しています。
『信長公記』では丹後・丹波に関する記述の間が空いているのでわかりにくくなっていますが、光秀は四年ほどかけてこの地域を攻略しています。
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その間に別方面への出陣を命じられたこともあり、かなりの疲労と達成感を感じていたことでしょう。
そのためか、翌年天正八年の正月頃まで、光秀は大きな軍事作戦を命じられていなかったようです。
光秀は信長より年長だと考えられていますし、体調を慮る意味があったのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)






