木曽義仲を討ち取って平家を滅ぼしたのに、頼朝を怒らせた義経は奥州で自害に追い込まれ、さらには奥州藤原氏も滅亡させられ――。
と【奥州合戦】は源義経が辿る悲劇の末路として語られがちです。
場合によっては、義経という疫病神のせいで奥州藤原氏までが潰されたようにも見えてしまう。
しかし本当にそうでしょうか。
もしも義経が逃げ込んでいなければ、奥州は無事でいられた?
仮に義経が西国に潜伏していたら、そのエリアが頼朝に攻められた?
実際のところ、当時はどんな状況だったのか。一連の流れを振り返ってみましょう。
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貿易で栄え軍事力もある奥州藤原氏
なぜ奥州藤原氏は頼朝に攻められたのか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、劇中で頼朝が奥州を討つ理由が示されました。
平家打倒を目指して西へ進軍したいのに、奥州で睨みを効かせる藤原秀衡がいるからそう簡単には動けない。
そのため源頼朝は、怪しげな僧侶・文覚に呪詛を頼んでまで、秀衡の死を望んでいるほどです。
これは何もドラマで一から作り上げたフィクションではなく『吾妻鏡』に記されたものであり、現代人からすれば荒唐無稽に見える呪詛も当時はかなり本気でした。
頼朝は、真剣に秀衡の死を願っていたのです。
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振り返ってみれば、そもそも奥州の藤原秀衡はなぜ幼い牛若丸を匿ったのか?
実は秀衡は、義経一人を助けたのではなく、使い道のある人材なり物資なりを集めて武力を高めて、朝廷や坂東から見ても侮れぬ力がありました。
だからこそ、義経も頼ることができたのです。
ではなぜ、奥州にそれほどの力があったのか?
答えは砂金です。
金が貴重であることは古今東西変わらず、当時は周辺環境からしても価値は高まっていました。
周辺とは中国です。
1127年、中国大陸において、全土を領有していた北宋が滅び、南宋が成立。
平清盛が注力した「日宋貿易」と定義される取引はこの南宋が相手であり、同国には大きな悩みがありました。
他ならぬ金です。
中国大陸の北半分は、敵である金国(国家としての金)に支配されていました。
貴金属が採掘できる鉱山は金国の領土にあって南宋では入手できず、それゆえ日本からの輸入金属類が重宝された。
なお、宋の後にできた元の時代、マルコ・ポーロは『東方見聞録』で“黄金の国ジパング”と記しています。それは南宋時代の影響を受けてのことだったのでしょう。
奥州ではさほどに金が産出され、頼朝にしたってこれ以上ない魅力的なエリアでした。
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しかし、状況はそう容易ではありません。
日本国内でもようやく源平合戦が終わったばかりで、兵や民は疲弊しきっている。それなのにまだまだ戦いを続けるとは何事なのか。
大河ドラマの視聴者ですら、殺伐とした源平合戦の流血に疲れたほどですから、目の前で起きている当時の人々からすれば奥州合戦には困惑や抵抗があったことでしょう。
朝廷に接近する「鎌倉殿」こと頼朝
平家を滅ぼした後、頼朝が君臨する鎌倉側は、朝廷に接近する姿勢を見せています。
わかりやすい政治駆け引きの道具とされたのが、頼朝の長女・大姫です。
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婚約者とされた木曽義仲の嫡子・義高が殺された後も、大姫は頼朝からすれば貴重な駒。
彼女の入内は頼朝の悲願でした。
しかし、大姫が夭折したことにより、その野心は頓挫してしまいます。
一方で、頼朝が朝廷に食い込むことに拘っていたかというと、そうでもありません。
建久3年(1192年)、後白河法皇が世を去ると、頼朝は同年には征夷大将軍となりました。
私達が現代で学ぶ歴史の授業では、鎌倉・室町・江戸の幕府が最高権力者を「征夷大将軍」としたことから、絶対的な官職と見られがちですが、これは誤解。
頼朝の希望はあくまで「大将軍」であり、「征夷」についてはいくつかの候補から選ばれたものです。
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そもそも……。
頼朝が「征夷大将軍」となったから幕府が始まったのか?
それとも東国を実効支配した結果「征夷大将軍」となったのか?
卵が先か?鶏が先か?
そんな混同があるのが鎌倉幕府の成立です。
なんせ日本初の幕府であり、それ以前の手本はないのですから、混乱しても仕方のないことでしょう。
かつては「いいくに(1192)つくろう」と教科書にも書いてあった幕府成立が、「いいはこ(1185)つくろう」になったり、あるいは他の候補も挙げられたりするのはこうした状況があるから。
1185年は平家が滅亡し、頼朝が朝廷から御家人や諸国の守護・地頭任命権を得た年です。
そして1192年は征夷大将軍に任じられた年。
その間――1189年にあった奥州合戦――こちらの経過をみれば、1192と1185で揺れ動いた理由も納得できるかもしれません。
奥州合戦とは、日本に武士政権が誕生する大きな契機とも考えられるからです。
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