湯顕祖

湯顕祖/wikipediaより引用

世界史

湯顕祖は科挙にも合格した清廉潔白で過激な文人~水都百景録・牡丹亭

2022年6月にLittoral Gamesよりリリースされた『水都百景録』。

その注目イベントである「牡丹亭」は、ほのぼのとした雰囲気で始まりながらの急展開に唖然とした方も多いようです。

同イベントで主役を務める人物は、内気で文章を書くのが好きな、湯顕祖(とうけんそ)という少年でした。

「中国のシェイクスピア」と呼ばれ、文人として名を残した湯顕祖。

日本では幕末維新の志士が信奉したことで知られる、陽明学の徒でもあります。

ゲームの中ではシャイだけど、気骨溢れてなかなか過激なところもある――それでいて清廉潔白で妥協を許さなかった。

湯顕祖とは一体どんな人物だったのでしょうか。

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「中国のシェイクスピア」科挙に挑む

湯顕祖(とうけんそ)は、シェイクスピア(1564−16161)とほぼ同時代に生きました。

嘉靖29年(1550年)生まれの万暦44年(1616年)没。

戯曲を手がけたことから「中国のシェイクスピア」と呼ばれ、蘇州文人が多く登場する『水都百景録』の中で、彼の出身地は撫州府臨川県(現・江西省撫州市臨川区)です。

彼の祖父や父は科挙には通りませんでした。

しかし、受験勉強に使うだけの資産は蓄えていて、秀才の顕祖には湯家の期待がかけられました。

結果、21歳で科挙の郷試に合格。

これがどれだけ驚異的なことか?は『水都百景録』の主役である文徴明を見ればご理解いただけるでしょう。

文徴明は26歳から53歳まで、合計9回の郷試に挑み、結局、合格できていません。

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『水都百景録』の文人は科挙と縁がない人物が多いのです。

落ち続けるわ。

カンニング事件で冤罪に巻き込まれるわ。

科挙合格とは本当に大変なことでした。

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陽明学を信奉する反骨の文人

郷試に合格した湯顕祖。

残すところ、北京の会試のみですが、ここで大いに躓いてしまいます。なんと四度連続で落ち続けました。

受験テクニックに疎いわけではありません。

思想と政治が影を落としていたのです。

湯顕祖は、陽明学を封じる羅汝芳(らじょほう)に私淑し、大きな影響を受けていました。民衆の生活に心を寄せ、身分にこだわらないその姿に心を動かされていたのです。

陽明学とは、明代に生まれた儒教の一派であり、しばしば危険視され、迫害を受けることもありました。

例えば、湯顕祖が信奉していた陽明学者として、李卓吾がいます。

異端の思想家として危険視され、獄中死を遂げる76まで狂おしいほどに走り続けた人物です。

江戸中期から幕末にかけて、李卓吾は日本でも信奉されました。

中でも吉田松陰が深く傾倒していたことでも知られます。

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そんな維新志士にまで通じる情熱が、湯顕祖の心を捉えていたのですが、湯顕祖が科挙に挑んでいたころ、宰相の張居正は陽明学を危険視し、その教えを奉じる者を弾圧していました。

それは湯顕祖にとって三度目となる会試受験のとき――張居正の二男も受験者にいて、張居正は優秀な受験生を招き、宴席でもてなそうとしました。

反発した湯顕祖は出席を断ります。

と、張居正は受験結果に手を回して不合格としたのです。

さらには湯顕祖四度目の会試受験でも、張居正の三男が受験生にいて、またもや根回しの宴席を断った湯顕祖は不合格となりました。

もはや一生合格できないのでは?

そんな風向きが変わったのが万暦11年(1583年)。

張居正が亡くなり、34歳になった湯顕祖は五度目の受験でようやく合格となりました。

そして万暦12年(1584年)には自らの希望で南京に赴任します。

官吏としてはまずまず、文人としては冴え渡る日々を送ることになるのです。

『水都百景録』では、湯顕祖と麗娘を応天府(南京)から転居させた方が多いかと思います。

しかし湯顕祖と麗娘は応天府代表と推察されます。

南京時代の湯顕祖は脂の乗り切った時期。蘇州担当カップルは唐伯虎と林奴児(秋香)かと思われます。

湯顕祖

湯顕祖/Littoral Gamesより(→link

 


腐敗を嫌い上奏 そして左遷される

『水都百景録』ではおっとりとしている湯顕祖。

まだ十代、郷試合格前の姿かと思われます。

湯顕祖は20歳で呉氏と結婚し、男児が産まれなかったため、28歳で趙氏を第二夫人としました。

呉氏の死後、傅氏と再婚すると、男子5人、女子7人以上の子に恵まれたとされます。

官僚となり、中年になってからの湯顕祖は、なかなか過激な人物です。

南京時代、湯顕祖は古文辞派という文人一派を猛攻撃しました。

古文を尊ぶと言えば格調高いようで、過激な湯顕祖からすればこんなところです。

「アイツらのしていることって、古文のコピー&ペーストであって、要するにパクリなわけ。もっと新しい文章を書いてみたらどうなのよ」

なんと古文辞派の大物・王世貞の文章から、古文のコピペとわかった箇所を本人の目の前で塗りつぶすという、過激な抗議パフォーマンスをしたことすらあります。

官僚としても湯顕祖は反骨精神を発揮。

万暦19年(1591年)に中央の有力官僚を弾劾する上奏文「論輔臣科臣疏」を提出しました。

結果、雷州半島にある徐聞県に典吏に左遷されてしまいます。

なんとか手を尽くしてくれる人もいたのか、万暦21年(1593年)には許浙江省・遂昌県の知県に任命されますが、5年間の在任中、息子1人と娘2人を亡くすという不幸に見舞われています。

この任務をなぜ5年で辞したのか。

明朝は財政危機にあり、それを鉱山開発で補うべく、開発に勤しんでいました。

この税金「鉱税」徴収を担った宦官は、当たり前のように増税を繰り返し、私腹を肥やし、民を困窮させます。

民を愛し、清廉潔白であった湯顕祖には、許せぬことばかりでした。

もはや悪政を見てみぬふりはできない。

湯顕祖は官を辞し、臨川に帰郷、「玉茗堂」を構えました。

それからは創作に打ち込み、『牡丹亭環魂記』はじめ、代表作を手掛けていくのです。

その姿は自作に妥協を見出さない、反骨の文人そのものでした。

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