大河ドラマ『どうする家康』の第17回・第18回放送で【三方ヶ原の戦い】が描かれました。
家康率いる徳川軍が信玄の武田軍相手に完膚なきまでに敗北したこの戦い。
ド定番のエピソードとして描かれるのが【焼き味噌伝説】であり、ドラマの放送前にはわざわざニュースでも取り上げられる程でした。
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いったい何事か?
というと、三方ヶ原の戦場から逃げ出した家康が浜松城へ戻るとき、恐怖のあまり「脱糞」しながら「これは焼き味噌じゃ」と誤魔化したという話ですね。
大河ドラマに脱糞を期待するのも子供っぽい話ですが、そもそもの話として
脱糞のエピソードは実際にあったことなのか?
という疑問も浮かんでくるかもしれません。
史実を振り返ってみましょう。
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焼き味噌伝説の真偽
『どうする家康』でも描かれたように、武田信玄率いる敵に大敗を喫した家康。
命からがら逃走した際、浜松城につくと、鞍に何かがついていました。
「殿、糞を漏らして逃げ帰ったのですか!」
そう指摘した家臣に、家康はこう返しました。
「これは焼き味噌がこぼれただけじゃ!」
こうした逸話そのものは、記録があったとはされています。
ただし、確たるものでもなく、伝聞的に伝わっていったと考えられる。
要は、正確とは思えないエピソードですが、話の題材が題材だけに、面白おかしく現代まで伝えられたのでしょう。
『どうする家康』では、江戸時代の創作である、お市の「小豆袋」も史実としていました。
お市が信長に送った“小豆袋”は史実と断定していいの?どうする家康
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ならば「焼き味噌もあり」と考えた方も多かったのかもしれません。
そして【三方ヶ原の戦い】においては、もう一つ大きな伝説が残されました。
「顰(しかみ)像」です。
「しかみ像」も後世のもの
【三方ヶ原の戦い】で信玄に惨敗した家康。
終生そのことを忘れぬよう描かせた絵がこちらの
「顰(しかみ)像」である――そんな話も今に至るまで大々的に伝わっています。
ふくよかでどっしりとした他の家康像とは異なり、一目見たら忘れられないインパクトがありますよね。
信玄との戦で味わった苦い思い、そう言われれば信じたくもなりますが……実は肖像画というのも厄介な存在です。
教科書に掲載されていたお馴染みの「源頼朝像」や「足利尊氏像」は、現在、本人のものとは確定できないとされ、「伝源頼朝像」や「騎馬武者像」と称されている。
数十年前の書籍には、最上義光とその愛娘・駒姫の肖像画とされる絵が掲載され、現在では用いられなくなっています。
どちらも後世の画家が描き、当時の正確な像とは見なせないため、取り上げられなくなったのです。
『信長の野望』シリーズの顔グラフィックも、肖像画ベースではない兜を被ったものに変更されています。
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「しかみ像」は、家康の肖像画としては通ります。
ただ、描かれたタイミングが不明です。
明治期には【長篠の戦い】でのものとされ、昭和になってからこんな話が広まったのです。
「【三方ヶ原の戦い】において苦い敗北をした家康公が、その屈辱を忘れぬように描かせたものなのだ」
自らの慢心を諫める――いかにも家康らしい説明のため拡散しましたが、実は出典がありません。
誰かが考えて広まっただけの可能性が高く、史実とは到底見なせないのです。
「焼き味噌」も「しかみ像」も逸話としてはよくできている。ゆえに広く流布してしまったのでしょう。
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