徳川家康の側にいて、天下人への道を大いに補佐したとされる徳川四天王。
酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政たち四名を指しますが、彼らに引けを取ることなく活躍しながら、知名度はいまいち低い武将がいます。
大久保忠世(おおくぼ ただよ)です。
大河ドラマ『どうする家康』では小手伸也(こてしんや)さんが演じ、色男っぷりをアピールしていましたね。
そのせいか、劇中ではどことなくファニーに見えますが、実際は勇猛果敢な戦いぶりと根性が売りという印象。
いかにも三河武士の代表といった存在ながら、その子孫はトラブルから一時は改易という劇的な展開も迎えてしまう。
大久保忠世の生涯を振り返ってみましょう。
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蟹江七本槍
大久保忠世は天文元年(1532年)、徳川家臣・大久保忠員(ただかず)の長男として生まれました。
父は大久保氏の嫡流ではありませんでしたが、代々の活躍によって、本家に勝るとも劣らない存在感を発揮していた家です。
忠世は家康の父・松平広忠に仕え、その流れで家康にも仕えるようになり、永禄年間の末期には、部将としての立場を確立できていたと思われます。
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初陣は天文15年(1546年)の上野城(豊田市)攻め。
武名を上げたのは、弘治(1555年)の蟹江城(愛知県海部郡)攻めです。
織田方の拠点・蟹江城を今川軍が攻めた戦いで、当時の松平家は家康(竹千代)が今川氏のもとに預けられ、実質的には家臣のような状態でした。
良い働きをしておかなければ、主人の身や待遇悪化も危ぶまれる――そんな場面であり、忠世たち徳川家臣団は今川軍の先鋒として織田軍と戦い、落城に追い込んでいます。
その武功から、忠世は弟・忠佐らとともに”蟹江七本槍”と称賛されました。
三方ヶ原の戦い
その後の家康は、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間の戦いに参戦し、今川義元が討死すると翌永禄4年には今川家と敵対。
織田と同盟を結んで、三河の支配に努めます。
当時はまだ家康の率いる安祥松平家は確固たる地位を築いておらず、そのため永禄7年(1564年)には三河一向一揆(三河一揆)なども勃発しました。
こうした一連の争乱を平定すると、今度は遠江侵攻で今川家を滅亡に追い込むわけですが、この一件で徳川軍は、甲斐の虎を敵に回してしまいます。
そう、武田信玄です。
徳川家康は、今川氏真を討ち取るどころか、妻の早川殿と共に庇護して北条と勝手に和睦、信玄の怒りを買ったのです。
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そして敵対した武田軍と迎えたのが、元亀3年(1572年)12月【三方ヶ原の戦い】でした。
ご存知、徳川軍が武田軍に完膚なきまでの敗北を喫し、家康が命からがら浜松城へ逃げ帰った合戦。
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他の徳川家臣たちもそれぞれの方法で、武田軍の士気をくじいたり、味方を鼓舞するために動いていたとされます。
四天王筆頭・酒井忠次の「酒井の太鼓」などが有名で、大久保忠世にも豪胆な逸話が残されています。
味方が逃げ帰ってきた後、天野康景と共に武田軍の陣へ向かい、夜間に鉄砲を撃ちかけて散々に混乱させたというのです。
といっても、この話は『三河物語』を出典とする逸話ですので、信憑性は怪しいところ。
著者は彼の弟・大久保忠教ともされていますので、兄の活躍が誇らしすぎて、ついつい話を盛ってしまった可能性もあるでしょう。
他にも天正元年(1574年)、武田軍を相手にした犬居城攻めでは、崖下に落とされながらも這い上がって再度戦線に加わり、敵兵を斬った……なんて話まであります。
「転んでもただでは起きない」というか、話が盛られていたとしても、粘り強さと闘志は間違いないのかなと感じますね。
そして極めつけは織田信長に褒められた一件です。
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