藤原行成

藤原行成(菊池容斎画『前賢故実』/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原行成は道長を助けて自らも出世~書と政務の達人は道長と同日に死す

2024年大河ドラマ『光る君へ』で動向が注目される藤原道長とまひろ(紫式部)。

第10回放送でついに二人は結ばれましたが、その直前、道長が送る和歌とまひろが返す漢詩ですれ違いが続き、一向に埒が明かない!そんな困り果てた時に道長が相談した人物を覚えていらっしゃるでしょうか。

藤原行成です。

この行成、ドラマに初登場以来、常に物腰柔らかく、学識の高さが滲み出ていて、人の好さも感じさせます。

では実際のところ、どんな人物だったのか?

というと、書に関しては「三蹟」の一人に数えられる当時の達人であり、それだけでなく政務能力にも長けていて「寛弘の四納言」と称され、道長や歴代の天皇からも信頼を得る有能な人物でした。

命日も道長と同じ万寿四年12月4日(1028年1月3日)という不思議な縁があり、ドラマでも最後まで活躍してくれそうな、藤原行成の生涯を振り返ってみましょう。

 


祖父の源保光に学識を伝えられ

藤原行成は天禄三年(972年)、藤原義孝の子として誕生しました。

父の義孝は藤原北家の出であり、祖父の藤原伊尹(これまさ)は、当時、円融天皇の摂政です。

行成は生まれて間もなく祖父の猶子となり、これは確実に将来を約束されたもんだろう!

と思いきや、不幸にも、行成の物心がつく前に祖父も父も亡くなってしまいます。

幼くして父方の後ろ盾を失う――かなりのハードモードですが、幸い母方の祖父・源保光(やすみつ)が健在であり、その庇護を受けて育ちました。

しかも、そのことがある意味彼を幸運に導いていきます。

祖父の保光は紀伝道(歴史)の学者であり、蔵人頭(天皇の秘書長のようなもの)などの経験もある、エリート文官でした。

漢学の知識も豊富で、孫の行成に惜しみなく伝えられたのです。

父方の遺産もありました。

当時の東宮である師貞親王は伊尹の外孫だったため、行成とは従兄弟の関係。

永観2年(984年)10月に師貞親王が花山天皇として即位すると、この血縁の近さから行成は侍従の官職を与えられ、側近く仕えることになります。

言わずもがな、天皇の側は政治の最前線です。

様々な政務や議論を肌で感じ、保光の教えも参考にしながら、若き行成は自らを育てていったことでしょう。

しかし寛和二年(986年)、突如、状況は変わります。

花山天皇が、右大臣・藤原兼家藤原道兼らの陰謀によって譲位・出家してしまうのです。

【寛和の変】と呼ばれる政変ですね。

※以下は花山天皇の関連記事となります

花山天皇は寛和の変だけじゃない!道隆の子供たちとも激しく揉める波乱万丈の生涯

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これによって、まだ数え7歳の一条天皇が即位。

花山天皇と一条天皇は父子ではないため、行成も”現職天皇の外戚”という立場を失ってしまい、代わって藤原兼家が台頭することとなりました。

藤原道隆・道兼・道長ら兄弟の台頭でもありますね。

行成は真面目に仕事をしていたおかげか、その後も少しずつ位階は上っていったのですが……官職のほうはあまり芳しくなかったので、能力を持て余していたかもしれません。

 


妻は源泰清の娘

藤原行成は永祚元年(989年)、源泰清の娘と結婚します。

その後、彼女との間には7人もの子供に恵まれていますので、夫婦仲は良かったと思われます。

ただし、残念なことに4人は夭折しており、妻も最後の子供を産んで亡くなっています。

行成は『権記(ごんき)』と呼ばれる日記をつけていて、妻の亡くなった日の記録には「結婚したと思われる日付」も書かれており、愛情の深さがうかがえます。

また、この翌年に行成は、亡き妻の妹と結婚し、彼女との間にも複数の子供をもうけました。

姉の遺児たちの面倒をみているうちに、結ばれたようです。

継室となった妹も賢明な人だったようで、後年、

行成へ無理やり置かれていった賄賂を受け取らず、出仕していた行成に急いで知らせ、事なきを得た

という逸話があります。

すると長徳元年(995年)、行成に運が巡ってきます。

蔵人頭を務めていた源俊賢(道長の妻である源明子の兄)が参議に昇進したため、このポストが空くことになりました。

このとき俊賢が、後任として行成を推挙し、一条天皇がこれを認めたため、一気に出世したのです。

行成は俊賢の引き立てに深く感謝し、生涯忘れませんでした。

時系列が前後してしまいますけれども、

「後に行成が俊賢の官位を超えた後も、決して上座には座らなかった」

「俊賢が出仕する日は行成が上座になることを防ぐため、わざと病気と称して出仕しなかった」

「どうしても同時に出仕しなければならないときは、向かい合わせになるよう席を調整した」

とされています。

これほど気遣われれば、推挙した俊賢も誇らしかったでしょう。

そもそも俊賢は行成に好感を抱いていたらしく、これより二年ほど前に「比叡山で君に関する良い夢を見たよ」と行成に伝えたこともありました。

当時は「夢=予言」といった価値観の時代ですから、言われた行成も良い気分になったはずです。

蔵人頭就任については、別のエピソードもあります。

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