大河ドラマ『光る君へ』の第21回でまひろと藤原為時の親子は越前へ向かいました。
父の為時が越前守(越前の国司)となり、そこに漂着していた70名もの宋人たちを穏便に対応することが求められたのです。
しかし、そんなことが上手くいくのか。
現地で二人が出会った70名もの宋人たちは、とにかくやかましく、為時が駆使する中国語もどこまで通用するのか?
そもそも“宋”とはどんな国であったのか?
本稿では、ドラマの理解に欠かせない、「宋」について見てまいりましょう。
同時に、宋という国がありながら、なぜ「唐」という表記が平然と使われているのか、という点についても確認しておきましょう。
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巨大で、長く、日本に残る「唐」
現代は、日本の西にある大陸国家のことを、どの時代であろうと【中国】と呼びます。
たとえば始皇帝のことを、
「昔の中国にいた皇帝」
と説明しても間違いとは言い切れません。「いや、それは秦だよね」とわざわざ訂正する方も多くはないでしょう。
しかし、かつては中国ではなく、長いこと【唐(から)】と呼ばれ、その後、【支那(しな)】という呼び方も加わりました。
では、いつまで「唐」が通用したのか?というとざっと江戸時代まで。
一例として、「唐猫(からねこ)」があります。中国大陸を経由して伝わった猫ということで、日本の在来種と区別した呼び方とされました。
「中国を経由して」というところにご注意ください。
原産地がペルシャやタイであろうが、中国を中継したら「唐」となる。唐辛子は中南米原産ですが、中国を経由したため「唐」とついている典型例です。
経由地に影響され、それとわかる言葉は他にもあります。
【高麗(こま)】です。朝鮮半島を経由したものを指し、音が「こま」から始まるものは、本来【高麗】であったと考えられるものもあります。
注意が必要なのは【支那】という表記です。
江戸時代前半、中国大陸では【明清交替】という王朝の入れ替わりがありました。漢族の王朝である明が滅び、満洲族の清が成立したのです。
そこで華夷秩序に含まれる日本や朝鮮といった国はこんな疑念を覚えた
漢であればまだしも、なぜ、満洲族に従わねばならないのか――
そんな状況の中で、中国大陸から敬意を抜いた呼称として生まれたのが【支那】です。
フラットどころか、劣位とするニュアンスが含まれ、現在では差別用語とみなされますので、使用は控えるべきでしょう。
大河ドラマにおいて、この用語の扱いには注意が必要です。
『平清盛』では、「宋剣」や「宋船」といった呼び方がなされていました。
実際に平清盛が関わっていたのは南宋ですが、呼称としては「唐」を用います。
『どうする家康』では、家康が中国を「唐」と呼んだことを、信長が「明」と訂正する場面がありました。
現代人からすればそうなるのでしょうが、当時は「唐」と呼ぶ方がむしろ自然です。
ではなぜ、日本人はずっと【唐】で通したのか。
遣唐使が終わり、民間交流となる日中間
日本が国家として歩み出した際、真剣に手本としたのが唐でした。
しかし、そのために派遣された【遣唐使】は、時代の流れと共に消え去ってゆき、唐という国家自体も滅びてしまいます。
その後は【五代十国時代】(907年-960年代)となり、国交どころではなくなった。
結果、長い間、正式な往来は断絶してしまい、両国の関係は縁遠くなってしまいます。
政治的な関係が途絶えて国交はなく、朝貢貿易をするわけでもない――そうは言えども隣国であることには変わりありません。
唐代のように、制度や文学を積極的に取り込もうとはしない。
けれども交易はしたい。
それが日本と中国の関係でした。
足利義満の時代、短期間【遣明使】が派遣されたことはあります。
しかし、基本的に日中関係は、非公式な交流が主軸。
江戸時代に入るまでは、渡航が禁止されるわけでもありません。
交易したい商人。
仏教を学びたい僧侶。
こうした層が日中交流を続けていったのです。
国家間の交流でないため、王朝名の認識はなかなか更新されなくなりました。
これは朝鮮半島にも同様のことが言えて、豊臣秀吉の【朝鮮出兵】までは王朝交替をしても「高麗」と呼ばれています。
政権が不安定となると犯罪行為の取り締まりができなくなり、それが密貿易集団【倭寇】として認識されることもありました。
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