松前廣年

『夷酋列像』イコトイ(乙箇吐壹)作:松前廣年/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』ひょうろく演じる松前廣年(蠣崎波響)史実ではアイヌ絵で有名な凄腕絵師

いま、大河ドラマ『べらぼう』で、最もインパクトのある人物と言えば?

えなりかずきさん演じる松前道廣が非常に際立ったキャラクターですが、それよりもさらに印象深いのが、その弟である松前廣年(ひろとし)でしょう。

演じているのは、ひょうろくさん。

水曜日のダウンタウンで一躍人気となったお笑い芸人で、話し方や間合いなどの“空気感”があまりにも独特過ぎるせいか、ドラマの中でも妖怪「ぬっぺっぽう(ぬっぺふほふ)」に喩えられていました。

以下の妖怪絵がそうですね。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「ぬつへつほふ」/wikipediaより引用

実はこの絵の作者も、劇中で片岡鶴太郎さんが演じていた鳥山石燕喜多川歌麿の師匠)なのですが……ともかく廣年に関して気になるのはこの一点でしょう。

あの人は実在するのか?

実在したならば、どこまで史実に沿って描かれてるのか?

ひょうろくさんのインパクトが強すぎて、全てがぶっ飛んでしまいそうな、松前廣年の生涯を振り返ってみましょう。

 


実は兄よりも知られているかもしれない弟

松前廣年(ひょうろくさん)と、その異母兄である松前道廣(えなりかずきさん)。

女中に向けて銃をぶっ放す兄の道廣が松前藩第13代藩主であり、弟は家老ですので、一般的には兄のほうが知名度が高くなるところでしょう。

しかし史実におけるこの兄弟は、弟のほうが有名かつ日本史の教材ではお馴染みの存在です。

松前藩の家老というより画家として名高いのです。

例えば以下の絵。

『夷酋列像』イコトイ(乙箇吐壹)/wikipediaより引用

廣年の代表作である『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』であり、アイヌを描いた大変貴重な作品となっています。

なんとも細かく精緻に描かれていて、しかもフルカラー。

絵師の力量が相当確かでなければ生み出せないクオリティであり、美術品だけでなく史料としての価値も認められるほど。

日本史教材にふさわしい重要な作品です。

また廣年は、江戸時代の地方を代表する文人としても重要な存在と言えます。

最近は、上方浮世絵、土佐出身の弘瀬金蔵や、陸奥国出身の歌川国政も再評価されていますように、江戸時代の絵画は決して江戸だけではない――そう示すときにも廣年は意義のある人物です。

北海道ではしばしば彼の展覧会が開催されていて、今回の大河ドラマ『べらぼう』にふさわしい登場人物なのです。

 


永倉新八と遠戚にあたる廣年

松前廣年は宝暦14年(1764年)、松前藩12代藩主・松前資広の五男として生まれました。

えなりかずきさん扮する松前道廣は宝暦4年(1754年)生まれであり、一回り年上の異母兄。

廣年の母は、藩士である長倉長左衛門貞義の娘・勘子となります。

この長倉長左衛門貞義の兄に、長倉栄治という人物がおります。

栄治の孫が、新選組最強剣士ともされる永倉新八――つまり、松前廣年と永倉新八は遠い親戚にあたるのです。

永倉新八/wikipediaより引用

その縁もあってか、永倉新八は蠣崎波響の描いた松茸の絵を譲り受け、大切に保管してたそうです。

藩主の息子という恵まれた立場に生まれた廣年ですが、それから程なくして明和2年(1765年)、父が没してしまいます。

次の藩主になったのがまだ幼かった兄の道廣であり、廣年は蠣崎広武の養子とされ、家老・蠣崎廣当の嫡孫となりました。

『べらぼう』の劇中では道廣と廣年の兄弟揃って「松前」とされますが、弟はあくまで「家老・蠣崎家の当主」という立場であり、彼の子孫からも家老が輩出されています。

生まれながらにしてほとんど将来の決まっていた廣年ですが、幼い頃から特異な能力がありました。

画才です。

8歳のころ、馬術の練習を目にして走る馬を描くと、その、あまりの出来栄えに周囲は驚愕。

才能を本格的に伸ばすべく、安永2年(1773年)に江戸へ送られ、廣年は江戸藩邸で南蘋派(なんぴんは)画家・建部凌岱(たけべ あやたり・綾足とも)に師事することになりました。

建部凌岱は弘前藩家老の家に生まれた上級武士です。

南蘋派とは、長崎に渡来した清の画家・沈南蘋(しんなんぴん)の影響を汲む派であり、上級武士らしい人選でした。

建部綾足『山水図 金龍道人賛』

安永3年(1774年)に建部凌岱が没すると、その遺言に従い、同じく南蘋派の宋紫石に学びました。

宋紫石も清の画家である清紫岩を師としており、風雅な画風となります。

宋紫石『岩に牡丹図』/wikipediaより引用

 


田沼時代には江戸で羽根を伸ばしていた

『べらぼう』の松前廣年は、吉原の客として登場していました。

開放的な田沼時代で、天明3年(1783年)のこと。

幼い頃から江戸で育てられ、絵を学び、開放的な空気を楽しんでいた時期にあたります。

劇中ではまだ20歳の青年ですから、この時代の廣年は、画家と親交を結んでおり、大坂の木村兼葭堂まで訪ねたことも記録されています。

木村蒹葭堂(谷文晁作)/wikipediaより引用

画才を磨き、文人としての活動をのびのびとしていた頃。

なまじ美的センスは持ち合わせているだけに、ロシア産琥珀の腕飾りを身につけ、絶世の美女・誰袖花魁に魅了されてしまう設定なのでしょう。

そうして気ままに遊んでいる弟が、何かやらかしてしまったら、兄である藩主・道廣が激怒するのも当然のこと。

繰り返しますが、この道廣は、火縄銃を構えて劇中での初登場を果たしました。

粗相をした藩士の妻を桜の木に縛り付け、その頭上の皿を狙い撃ちにするというおそるべき暴虐ぶりです。

道廣は、廣年が吉原にいたことを知ると、実弟でもこの鉄砲遊びの的にしようとして、廣年はたまらず気を失ってしまいました。

彼は道廣にとっては異母弟であり家老です。

それが江戸で吉原通となれば、激怒するのは自然の流れでしょう。やりすぎではありましたが……。

また、天明3年(1783年)は、史実の廣年が松前に戻される年でもあります。

大原左金吾(画号・呑響)が一年ほど松前に滞在した時期とも重なっており、その影響を受けた廣年は画号を「波響」とするのでした。

つまり『べらぼう』での初登場時は、蠣崎波響となる前の時期だったんですね。

大原左金吾は、このあと、松前藩の不穏な状況をもたらす人物として再登場することになります。

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