大河ドラマ『豊臣兄弟』の第13回放送で注目される浅井長政の裏切り。
織田軍は挟撃され、下手をすれば信長や秀吉が討たれていたのでは?
そんな絶体絶命の危機から奇跡的な生還を果たし、彼らの撤退戦は「金ヶ崎の退き口」として後世でも脚光を浴びています。
しかし、それだけに、どうしても皆さんの興味から弾かれてしまう人物がいます。
若狭の戦国武将・武藤友益(むとう ともます)――。
『いったい誰だろう?』と思う方のほうが多いかもしれません。
実はこの方、最初に信長から標的とされていた武将でした。

越前討伐に出た織田軍は、少なくとも表向きは「若狭の武藤友益を討つ!」という名目で出陣しており、その結果、朝倉まで攻め込んだ展開となっているのです。
それでは武藤友益は?
当然、信長に殺されたのかと思いきや、意外なしぶとさを見せます。
信長のもとで二転三転しながら、本能寺の変直後は光秀に協力し、最終的に丹羽長秀へ仕えるという不思議な運命をたどるのです。
若狭で武田元明に仕えていた
武藤友益を輩出したのは、一説によると鎌倉時代から続く武家の武藤氏とされます。
これが本当ならば九州の少弐氏や、「悪屋方」と呼ばれる出羽の大宝寺義氏も同族となり、戦国時代の武藤友益は北陸地方の若狭石山城にいました。
生年や両親などの出自は不明。
武田元明に仕えて大飯郡佐分利郷に所領を持ち「佐分利殿」と呼ばれましたが、地理的条件や日頃の評判から織田軍のターゲットとされたのでしょう。
若狭は山城(京都)の北端と国境を接していて、以下の地図のように越前までの通り道にもなっていました。
つまり、織田信長にとっては攻撃の名目にしやすい位置にいたわけです。

織田軍の標的は若狭の武藤
元亀元年(1570年)4月20日、織田軍が出陣します。
このとき信長から毛利元就に宛てた朱印状の中でも「若狭の武藤友益が悪逆であるため成敗する」と記されており、「越前朝倉へ攻め込む」とは一言も書かれていません。
山科言継の日記『言継卿記』でも「若狭へ向かっている」という捉え方です。
少なくとも、当時の受け止めとしては若狭攻めだった。
しかし信長の本心は、当初から朝倉攻めにあったのでしょう。
事前に全国の諸将へ上洛を呼びかけたとき、徳川家康や松永久秀、三好義継や北畠具房などが従い、中国地方の宇喜多氏や豊後の大友からも使者は送られてきました。
朝倉義景は?
何ら音沙汰はありません。
そうした状況の中、信長は実に3万もの大軍で京都を出発したのです。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
兵力3万といえば「桶狭間の戦い」で今川義元が動員したときと同規模となります。
武藤友益を討つだけで、そこまでの大軍が必要だったとは考えにくいでしょう。
実際、織田軍は、琵琶湖の西岸に沿いながら北上すると、若狭石山城のある西へ向かう……のではなく、越前方面の東へ進路を取りました。
ターゲットは、やはり最初から朝倉氏だったのでしょう。
浅井長政が裏切り挙兵
越前敦賀郡へ進んだ織田軍は、まず手筒山城へ進軍。
同城は標高171mの山上に立つ、守備の強力な堅城でしたが、信長は力攻めを選び、その日のうちに陥落させます。
翌日からは金ヶ崎城、そして疋壇城(ひきだじょう)も陥落させ、わずか2日間で敦賀郡を制圧すると、あとは木ノ芽峠を越えれば朝倉氏の本拠地……と、ここで事態は一変します。
ご存知のように、浅井長政が信長を裏切り、挙兵してきたのです。

浅井長政/wikimedia commons
信長はわずかな供だけを引き連れて全速力で京都へ帰還を果たし、「金ヶ崎の退き口」で殿(しんがり)を任された光秀や秀吉、池田勝正も無事に戻ってきました。
では武藤友益はどうなったのか。
と、これが呆気なく、明智光秀と丹羽長秀が攻め寄せると降参し、母親を人質として提出しています。
城も壊されてしまいました。
だからでしょうか。この時点でいったん織田家に降ったと考えられますが、早くも同年の元亀元年(1570年)10月には離反し、どこかのタイミングで追放されたと思われます。
というのも、その後、武田元明ら若狭衆が『信長公記』に登場するときは武藤友益の名がなく、友益の旧領が別の者に与えられていたことが『信長公記』に記されているのです。
もはや武将としての再起は難しいようにも見える――と思いきや、その名は再浮上します。
天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変です。
本能寺の変
本能寺の変といっても、武藤友益が参加していたわけではありません。
明智光秀の謀反は、事前に味方を募るような準備があったわけではなく、突発的に行われたと見るほうが自然です。
というのも、織田政権を打破するには、信長だけでなく既に家督を継承していた織田信忠を同時に討ち取ることが最低条件とも考えられるからです。
仮に信長を討ち取っても、信忠が生き残ったら、当主である彼を中心にすぐさま織田軍が結束してしまう。
そうなれば明智軍を滅ぼすのは火を見るより明らか。
しかし、天正十年(1582年)6月2日は、信長が本能寺、信忠が二条御所という近場に宿泊していました。
それも急遽決まったことで、予測不能なタイミングです。
そこへ中国地方へ向けて軍勢を率いる明智光秀が近づいてきたのですから、千載一遇で訪れた謀反のチャンスに光秀の野心が衝き動かされたのではないでしょうか。

明智光秀/wikimedia commons
ともかく本能寺の変を成功させた光秀は、その時点から周囲の諸勢力に「自身の味方をする」よう各地に味方を求めて呼びかけます。
とりわけ重要だったのが細川藤孝と細川忠興でした。藤孝は旧知の仲ですし、忠興には娘の明智たま(細川ガラシャ)が嫁いでいます。
しかし、あっさり断られました。
大和の筒井順慶も同様。
こうなると誰も味方などしないのでは?という状況ですが、京極高次や阿閉貞征、あるいは小川祐忠や武田元明など、一定数の武将は応じています。
武藤友益もその中にいたのです。
どこで何をしていたのかは、まったく不明です。光秀に応じる若狭衆が多かったことを考えると、誰かのところで世話になっていたのかもしれません。
光秀の母であるお牧の方が若狭武田氏の出身という説もあります。
そして羽柴軍vs明智軍の「山崎の戦い」へ。
山崎の戦い
山崎の戦いで明智軍は惨敗。
阿閉貞征は父子で磔にされ、武田元明も処刑されます。
助かった京極高次は後に大名へ復帰し、小川祐忠は柴田勝豊の家老になって、後に関ヶ原の戦いでも裏切り者として知られますね。
では、武藤友益は?
これが、なぜか追放だけに終わり、しかもその後許されて丹羽長秀に仕えることになりました。
『丹羽歴代年譜付録』の中に佐分利城主・武藤上野介景久という名があり、それが武藤友益だと考えられています。

丹羽長秀/wikimedia commons
ただし、丹羽氏に拾われたからといって大きな活躍もなかったのでしょう。
その後は歴史の表舞台に登場することなく、没年月日も不明のまま。
織田信長から最初に標的にされたときが最も輝いていた――。
それでも、ほとんど名を残せず死していく武士のほうが圧倒的に多いことを考えると、戦国武将としては幸せな一生だったのかもしれません。
なお、浅井家が織田家を裏切った理由については別記事「信長が長政に裏切られた理由がスッキリ」をご覧ください。
参考文献
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年11月 吉川弘文館)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
大石泰史『全国国衆ガイド 戦国の“地元の殿様”たち』(星海社新書 2015年8月)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(2007年7月 中央公論新社)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
