豊臣国松

父の豊臣秀頼と祖父の豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

秀頼の子で秀吉の孫・豊臣国松の生涯|8才児の過酷な最期は市中引き回しで斬首

2025/05/23

良いときは良く、悪いときはとことん悪く――。

権力者の家族はギャップが激しいもので、慶長二十年(1615年)5月23日に処刑された豊臣国松もその一人でしょう。

姓は聞き覚えっても名が不明で「いったい誰?」という声が聞こえてきそうですが、記事タイトルにまんま答えはありますよね。

豊臣秀頼の息子であり、つまりは豊臣秀吉の孫となります。

父親が大坂城と共に自害したことから、国松の将来にも影がさしそうですが、一体どうなるのか……その生涯を振り返ってみましょう。

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秀吉の孫ってことで天国と地獄…

豊臣国松は、前述の通り、豊臣秀頼の息子です。

母は側室(成田助直の娘など諸説あり)。

となれば「秀頼が秀吉の実子なのかどうか?」はさておき、豊臣秀吉の孫となりますね。

さらに秀頼といえば母の淀殿とワンセット。

淀殿(左)と実子の豊臣秀頼/wikipediaより引用

母子のインパクトが強すぎるせいで、いつまでもお坊ちゃんだったかのようなイメージも漂いますが、彼にもちゃんと子供がおりました。

問題は、その秀頼が大坂夏の陣で敗北してしまったことです。

徳川に完敗した豊臣。

もし、その遺児である男子を生かしておくと、いつどこで誰かが「豊臣再興!」などと担ぎ上げないとも限りません。

ゆえに禍根を断ち切るため、大坂城の陥落後に徳川家康が処刑した――そんな単純かつ後味の悪い話でもあります。

当時、秀頼は20歳そこそこでしたので、国松が処刑されたときはなんと8歳(数え年)。

現代でいえば小学2年生になったばかりです。

絵・小久ヒロ

まぁ、武家の慣例を考えたら仕方ない話なんですけどね。

しかし、京都市中を引き回した上での斬首というのはさすがに酷すぎるとは思ってしまいます……。

 


故事にならえば助命は不可能

「引き回し」とは刑罰の一つです。

縛られた状態で馬に乗せられ、罪状や名前を書いた札をつけられて街中を巡らされました。

当時は現代よりもっと“恥”に対して敏感な時代ですから、これはトンデモなく屈辱的なことです。

身分が高ければなおのこと。

今の感覚でムリヤリ置き換えるとすれば、選挙カーのてっぺんに乗せられ「コイツ◯◯って言うんですけど、こんなことやったんですよー恥ずかしいですねー!」とスピーカーで言われ続けながら町内一周+全国ネットで生中継されるような感じでしょうか。

しかもそれに耐えたところで、待っているのは死刑です。

当然、家康の頭の中には源頼朝の故事もあったでしょう。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

頼朝が平清盛に処刑されかけたところ、清盛の義母などが口添えしたおかげで命を助けられ、成長後に平家を討ち倒す――というお話です。

要は「まだ幼いから」といって情けをかけると、やっと手に入れた天下人の座が一瞬で奪われてしまうかもしれません。

だからこそ、市民に「コイツが秀頼の息子だから!今日殺したから!もう秀吉の血筋なんかいねーから!!」(超訳)とアピールする必要があったのですね。

それでも生存説があったりするんですが、秀頼同様に「薩摩に落ち延びた」というあたりがまたベタな話ですので、事実がどうこうというより、民衆の願望が説話になったというのが真相でしょう。

ただし、生き残った子もいます。

 

幕府公認の縁切寺として存続

絶えてしまったかのように思える秀吉と秀頼の血筋。

この時点ではまだ他に同じ血を引く人が生きておりました。

一人は後に“天秀尼”(てんしゅうに)と呼ばれる女性です。

秀頼の正室&千姫(徳川秀忠の娘)が「せめて女の子だけは助けてください!」と懸命に嘆願したため、「尼寺に入れるならよかろ」ということで命を助けられました。

天秀尼(実母は成田助直の娘)/wikipediaより引用

このとき彼女が入ったお寺が東慶寺(とうけいじ)です。

鎌倉幕府の執権・北条時宗の正室だった女性が創建したといわれているところです。

今は男性のお坊さんが日々お勤めをされているそうですが、明治時代までは女人禁制ならぬ男子禁制の尼寺でした。

いつの頃からの方針なのかはハッキリとは不明ながら、夫に暴力をふるわれた妻など、苦境にある女性の「駆け込み寺」として機能しており、天秀尼もその方針を引き継いでいったそうです。

また、家康の孫・千姫が後ろ盾になってくれたことで、天秀尼だけでなく東慶寺の立場も保たれ、江戸時代を通して幕府公認の「縁切寺」として離婚などを受け持つ家庭裁判所としての役割を果たしていました。

あの淀殿に育てられた秀頼の娘が、家庭裁判所の所長みたいなことをしてたのかと考えるとなかなかスゴイ話です。

 

実はいた!? もう一人の男子?

国松と天秀尼の二人はほぼ間違いなく秀頼の子供ですが、もう一人兄弟がいたともいわれています。

これまた求厭(きゅうえんorぐえん)というお坊さんで、臨終間際に

「実は私は秀頼の次男だったのだよ!」

「ナ、ナンダッテー!!」

と話していたらしいことが記録されているのです。

大坂夏の陣の直後、細川忠興が国元へ書いた手紙の中にこんな記録も残されておりました。

細川忠興/wikipediaより引用

【忠興の手紙】

「秀頼には実は息子が二人いて、家康が血眼になって探してるよ。お前らそれっぽいの見つけたら知らせるようにな」(意訳)

求厭がその一人だとすればつじつまは合います。

とはいえ、本人が素性を明らかにすることを避けていたということは、当然、他の人が残した記録もないわけで、真偽は不明なんですけどね。

しかも求厭が仏門に入ったのは、徳川家の菩提寺である増上寺だというのですからこれまた「???」です。

いわく「徳川のお膝元である寺で修行をし、恨みの気持ちを昇華させたかった。死ぬ間際になってようやくそういう気分になれて良かった」らしいのです。

家康や秀忠が、自分の家の菩提寺=自分も埋葬されるか位牌を置かれるであろう寺の僧侶について、まったく素性を知らないなんてことがありえるんでしょうかね?

求厭が隠したとかごまかしたのかな。

それにしたって国松の弟ということは当時5歳くらいなわけで、家臣が隠して連れてきたにしてもちょっと無理があるような……。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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