史実の浅井長政はどんな最期を迎えたのか――。
義兄である織田信長を裏切り、何度か信長を窮地に追い込みながらも討ち果たせず、最後は逆に追い詰められていった長政。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でもその去就が注目されていたが……その運命を大きく変えたのが“武田信玄の死”だった。
足利義昭はじめ本願寺や三好勢、松永久秀らが首を長くして待ち構えていた武田軍の西上作戦。
まさかの本人の病死により、反信長勢力、いわゆる第二次信長包囲網は精神的支柱を失い、その後の信長の反撃により浅井長政も自害へ追い込まれてしまう。
では一体どんな経緯で長政は追い込まれ、最期を迎えたのか、振り返ってみよう。
武田信玄の病死と足利義昭の追放
元亀元年(1570年)に織田信長から突如離反した浅井長政。
その後は朝倉義景や延暦寺、石山本願寺らと連携し、約3年にわたって「第一次~第二次信長包囲網」を形成しながら、織田軍と戦い続けていた。
信長包囲網の詳細は以下の記事に譲り、
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第一次信長包囲網とは?四方を敵に囲まれた信長がそれでも生き残れた理由
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武田信玄 迫る!第二次信長包囲網|信長はどうやって“最大の窮地”を脱したか
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簡単に振り返ると、浅井・朝倉ら反信長勢力は、何度か信長を追い詰めながらも決定打を与えることができなかった。
1度目は元亀元年(1570年)6月のこと。金ヶ崎の退き口で撤退する織田軍を追撃しきれず。
2度目は元亀元年(1570年)12月のこと。第一次信長包囲網で信長を窮地に追い込んでおきながら、和睦を結んでしまった。
そして3度目は元亀四年(1573年)のこと。第二次信長包囲網で精神的支柱でもあった武田信玄が病死してしまう。
「三方ヶ原の戦い」で完膚なきまで徳川家康を叩きのめしておきながら、そのわずか3ヶ月半後、病没してしまったのだ。

絵・富永商太
信玄を喪った武田軍は甲斐へ引き上げるしかなく、一方、信長には反撃の好機となる。
同年7月に信長は、二度目の挙兵をした15代将軍・足利義昭を槇島城で降伏させ京都から追放すると、室町幕府は事実上の滅亡となり、第二次信長包囲網の「大義名分」までもが奪われた。
浅井氏の家勢も著しく衰退していく。
宮部継潤や磯野員昌など、主要な家臣たちは調略によって陥落。
その結果、京都と岐阜を結ぶ織田家の軍事ルートが盤石となり、織田軍は自然と戦力に余裕もでき、浅井氏への圧迫はさらに強まっていく。
武田家の代替わりにより、包囲網の連動性は大きく失われ、浅井・朝倉・本願寺などの反信長勢力は、次第に各個撃破される状況へ追い込まれていった。
刀根坂の戦いと朝倉氏滅亡
京都から、足利義昭が追放されると、天正へと改元。
そしてその直後の天正元年(1573年)8月8日、織田信長は3万と伝わる大軍を率いて岐阜城から出陣した。
標的は、浅井長政の居城・小谷城である。
そして、その背後に控える朝倉義景を待ち構えつつ、織田軍が小谷城を包囲すると、8月12日、2万の朝倉軍が北近江へやってきた。

朝倉義景/wikimedia commons
朝倉軍は小谷城の背後に位置する田上山や大嶽、丁野といった砦に布陣する。
しかし、すでに士気は低下していたと伝わっており、当主・義景の命令に従わない将兵も少なくなかったとされる。
8月13日の夜、信長は暴風雨に乗じて自ら陣頭に立ち、小谷城の最高所に位置する大嶽砦(おおづくとりで)を急襲、これを陥落させた。
この攻撃により、朝倉軍と小谷城の連絡線は完全に遮断。
戦況の不利を悟った義景は越前への撤退を開始するが、これを予見していたのが信長だった。
全軍に猛追撃を命じ、近江・越前国境の刀根坂(福井県敦賀市)においてついに朝倉軍を捕捉、壊滅させる(刀根坂の戦い)。
そのまま越前へと雪崩れ込んだ織田軍に対し、朝倉氏の同族であった朝倉景鏡(かげあきら)は従兄弟である義景を裏切り、自害へと追い詰める。
結果、義景は8月20日、越前大野の賢松寺にて自刃し、名門・朝倉氏は滅亡となった。
小谷城の孤立と重臣たちの離反
朝倉氏の滅亡により、浅井長政の援軍は完全に絶たれた。
越前から取って返した織田信長は、8月24日頃には再び小谷城の麓へと進軍。
対する浅井家中では、家臣たちの動揺は極限に達していた。
前述の通り、元亀2年(1571年)2月には名将・磯野員昌が佐和山城を開城して降伏し、浅井家防衛の要であった宮部継潤も同年、羽柴秀吉の調略によって織田方へ転じている。
そして今回の小谷城再包囲では、決定的なことが起きた。
小谷城の北西に位置する山本山城を守っていた阿閉貞征(あつじさだゆき)父子が、8月9日の時点で信長に降っていたのだ。
長政の手元に残された軍勢は、わずかな旗本と一部の忠誠を誓う家臣のみ。
片桐直貞(片桐且元の父)に宛てた8月26日付の感状において、長政は長年の忠節を謝し、
「万一所望の儀候はば、申し付くべく候(望みがあれば何でも言ってほしい)」
と記している。
この文書は、長政が自身の死と家の滅亡を覚悟した、事実上の遺言であったと考えられている。

浅井長政/wikimedia commons
浅井長政 最後の三日間
天正元年(1573年)8月27日、織田信長は小谷城への総攻撃を命じた。
指揮を執ったのは、調略により既に城内の内情を熟知していた羽柴秀吉である。
小谷城は、尾根伝いに金吾丸や本丸、山王丸、京極丸といった曲輪が並ぶ巨大な連郭式山城だった。

小谷城の各拠点/wikipediaより引用
秀吉の部隊は夜陰に紛れて城の中間地点にあたる「京極丸」への突入に成功。
これにより浅井長政と、一段低い場所にいた父・浅井久政の連絡は物理的に途絶え、8月28日、追い詰められた久政は、舞の名手であった鶴松大夫の介錯(一説には赤尾清綱の屋敷)により自刃と伝わる。
信長は、妹のお市の方とその三人の娘(茶々・初・江)の救出を最優先に考え、秀吉を通じて長政に降伏を促したと伝えられる。
『浅井三代記』などの軍記物では、長政はお市の方に娘たちを託して城外へ送り出し、自らは武士としての最期を全うすることを選んだというドラマチックな場面が描かれる。
史実としても、お市の方と三人の娘たちが処刑されることなく、織田方に保護されたことは確かである。

お市の方/wikimedia commons
「髑髏の盃」は史実だったのか?
天正元年(1573年)9月1日(あるいは8月28日深夜)、浅井長政は本丸に近い赤尾屋敷(重臣・赤尾清綱の居所)に追い詰められ、ついに自刃した。
享年29。
長政の死により、北近江を統治した浅井氏は滅亡。
長政と共に最後まで抗戦を続けた赤尾清綱は、その忠節を惜しんだ信長から助命を検討されたとも言われるが、結局は処刑されている。
落城後、信長は苛烈な処理を行った。
長政の嫡男であった浅井万福丸(当時10歳前後)は執拗に捜索され、敦賀付近で捕らえられて処刑。
翌天正2年(1574年)の元旦、岐阜城において信長が催した内宴では、浅井長政、浅井久政、朝倉義景の首級が披露された。

絵・アニィたかはし(戦国ブギウギより)
『信長公記』の記録によれば、3人の首は薄濃(はくだみ・漆で固めて金粉を施すこと)にされ、内宴の席に置かれたと記されている。
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正月の酒宴「浅井と朝倉の首」を肴に酒を飲む|信長公記104話
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その意図については、敵将への弔い、勝利の誇示、あるいは儀礼的演出など、複数の見方がある。
一方、『甫庵信長記』の描写では、信長がこの髑髏を盃(さかずき)にして、家臣たちと酒を飲んだという凄惨な描写が付け加えられた。
言うまでもなく、こちらは創作であり、現代の歴史研究では、信長が実際に髑髏で酒を飲んだという事実は否定されている。
あくまで軍記物特有の「冷酷な独裁者・信長」というイメージ強調のための創作であろう。
浅井滅亡が秀吉と信長にもたらしたもの
浅井長政の滅亡は、織田信長の天下布武にとって非常に大きな契機となった。
近江、琵琶湖の東岸は、岐阜と京都を結ぶ大動脈であり、浅井氏の掃討により信長は畿内エリアの支配を安定化させることに成功。
小谷城攻略で大きな功績を挙げた羽柴秀吉は、浅井氏の旧領である北近江三郡を与えられ、長浜城を拠点とした大名としての第一歩を踏み出す。

絵・富永商太
そして将来的には、長政とお市の方の子である茶々(淀殿)を妻に迎える。
織田家、浅井家、豊臣家にとっても大転換となった長政の死。
その生涯については別記事「浅井長政の生涯」を参照いただきたい。
※浅井氏の本拠・小谷城攻略の詳細は「小谷城の戦い」をご覧あれ
参考文献
池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館)
岡田正人 編『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
太田牛一 著/堀新 編『信長公記を読む』(2009年2月 吉川弘文館)
柴裕之『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(2025年8月 戎光祥出版)
和田裕弘『柴田勝家 ―織田軍の「総司令官」―』(2017年11月 中央公論新社)
黒田基樹『お市の方の生涯 ―「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像―』(2017年10月 講談社)
【TOP画像】浅井長政/wikimedia commons



