この武将が登場するたびに戦国ファンは“散り際”を楽しみにしてしまう――と言えば、やはり松永久秀でしょう。
織田家に反乱を起こして信貴山城を包囲され、説得にも応じず、最期は信長の欲しがっていた「平蜘蛛の茶釜」を抱いて自爆!
そんな派手な伝説で語られることから、巷では「ボンバーマン」などとも言われますが、そもそも茶器を抱いて火薬と共に自爆など本当にあり得たのでしょうか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも竹中直人さんが演じて非常に注目度の高い松永久秀。
史実ではどんな最期を迎えたのか、なぜ死ななければならなかったのか。

『太平記英勇伝:松永弾正久秀』落合芳幾作/wikimedia commons
その最期を、ドラマと比較しながら振り返ってみましょう。
豊臣兄弟は松永久秀の説得に向かった?
豊臣兄弟と松永久秀は一体どんな関係だったのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』では、久秀から秀長に対して「自分の娘を妻にしてくれ」というような場面がありました。
あれは、いわゆる主人公補正でしょう。
竹中直人さん演じる久秀から、まだ駆け出しの秀長に姻戚を申し込んでくるなんて「秀長ってそんなに凄いヤツなんだ!」と、デキる男に仕立てるための展開ですね。
実際、その後の劇中で結婚に関する話は一切出てこないまま、本日の第20回放送ではいよいよ久秀の最期が描かれる見込みです。
しかもドラマの中では、平蜘蛛の茶釜と共に爆発炎上するようなイメージも漂わせていましたね。

それだけに、もしかしたら交渉役を任された秀長が、久秀にこんなことを言うかもしれない。
「平蜘蛛の茶釜をお譲りください! さすれば殿(信長)もお許しくださる!」
しかしこの展開は、あくまでドラマの演出。
史実における久秀の説得役は信長の側近・松井友閑(まついゆうかん)であり、久秀はその面会すら断ったとされ、本来であれば豊臣兄弟が前面に出ることもありません。
最終的な信貴山城攻めの主役は織田信忠と筒井順慶に任されました。
では実際に、どのような流れで久秀は最期を迎えたのか?
そりゃあ久秀も謀反を起こしたくもなるよ……
松永久秀が織田信長に背いたのは天正五年(1577年)8月のこと。
織田政権に反旗を翻すのは実は二度目であり、大和と河内の境に近い信貴山城に籠りました。
これに対し、織田方の総大将として同年9月に出陣したのが、信長の嫡男・織田信忠です。
すでに織田家の家督を譲られていた信忠は、後継者として軍事経験を積んでいる最中であり、信貴山城攻めには筒井順慶も加わっていました。
久秀にとっては最悪の相手です。

筒井順慶/wikimedia commons
筒井は大和支配を巡って長年争ってきた宿敵であり、信貴山城の戦いは、大和国主の座をめぐる最終決戦とも言えました。
もちろん常識的に考えれば、久秀に勝ち目はありません。
ならばなぜ、こんな不利な状況で蜂起したのか?
詳細は別記事「なぜ松永久秀は二度も信長に背いたのか?大和の支配を失った苦渋の決断」に譲り、端的に説明しますと、原因は他ならぬ筒井順慶と多聞山城でした。
天正四年(1576年)に筒井順慶が大和守護に起用されると、翌年には、久秀が築いた多聞山城の解体も完了し、しかもその解体作業は久秀の息子・松永久通と筒井順慶の共同で進めさせられた。
あまりにも酷い仕打ちです。
久秀にとって多聞山城は心血注いで築いた大和支配の象徴であり、その解体をよりによって息子の久通と筒井に進めさせるなど、屈辱の極みとも言えます。
なぜ信長はこんな仕打ちをしてしまうのか。
信長は合理的であるがゆえに“人の情や繋がり”を軽んじるような場面が時折見られます。
例えば浅井長政にとっては最悪だった「越前朝倉攻め」などがそうで、結果的に長政が信長を裏切らざるを得ない苦境へ追い込まれています。
松永久秀と筒井順慶の関係についても、あまりに気遣いがない。
「そりゃあ久秀も謀反を起こしたくなるよ……」と思わされます。
片岡城の戦いから信貴山城の戦いへ
天正五年(1577年)9月に出陣した織田信忠の軍勢は、まず片岡城の攻撃に着手。

織田信忠/wikimedia commons
10月1日、細川藤孝や明智光秀、さらには筒井順慶が攻め寄せ、松永勢150名を討ち取りながら、同城を攻略しました。
そして10月3日には信貴山城へやってきて、まずは城下を焼き払います。
総攻撃を仕掛けたのは10月10日のことでした。
織田家の主要な家臣も顔を揃えており、佐久間信盛をはじめ、羽柴秀吉や明智光秀、丹羽長秀らがそれぞれの攻め口から攻め上がっています。
奇しくもこの日は、永禄十年に東大寺の大仏殿が焼失した日です。
『信長公記』では久秀の行為として描かれますが、実際は久秀と三好三人衆との間で戦闘が起き、そのどさくさ紛れで大仏殿に火が移ったもの。
久秀が悪意を持って焼いたものではありません。
いずれにせよ、もはや松永方が降伏する余地は乏しく、信貴山城の戦いは激化していき、しまいには総大将の織田信忠も自ら険しい山を攻め上がったとされます。
では、そうした様子を見ながら、松永久秀は平蜘蛛の茶釜と共に爆死をしたのか?

松永久秀が平蜘蛛を割る場面(月岡芳年)/wikipediaより引用
松永久秀のリアルな最期とは?
結論から言いますと、爆死は史実ではありません。
近世以降に広まった俗説であり、松永久秀の最期については「信貴山城の天守に火をかけて自刃した」と見るのが自然でしょう。
『信長公記』でも、猛火の中に飛び込み一族郎党ともに焼け死んだと記されています。
ならばなぜ、爆死などという俗説が広まったのか?
というと久秀の“梟雄”というイメージに合致したからでしょう。
「将軍殺し」や「大仏殿炎上」さらには「信長へ二度にわたる謀反」など、松永久秀には梟雄に相応しい材料が揃いすぎていた。
しかし史実では、久秀本人が将軍殺害を主導したとは言い難く、大仏殿炎上も前述の通り三好三人衆との戦闘で起きてしまったもので、悪行に関する噂話の多くは後世で大きくされた部分が少なくありません。
何より久秀の自害が茶器と結びつけられるのは、久秀自身が茶の湯や茶器に詳しい文化的要素を備えた武将だったから。
そんな人物が、なぜここまで誤解されているのか、不思議になってくるほどです。
★
かつて三好家に仕えた久秀は、畿内政治の実務を担い、主家のために官僚的な働きも担っていました。
信長の躍進によって三好一族は衰退するも、久秀はどうにか生き残ることに成功。
織田家の畿内統治を手助けしておりましたが、その結果が宿敵・筒井順慶による大和支配となっては、信長のもとに居ても久秀の大和復権は望めなくなっていたのでしょう。
そして信貴山城での自害を選ぶのでした。
なお、久秀が謀反を起こしたとき、まだ幼い二人の孫が殺害されています。
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あまりにも賢く健気な最期に、織田軍の村井貞勝も命乞いを進めるのですが、そのとき二人が取った行動が驚きで……。
よろしければ「信長を裏切り殺された「久秀の孫二人」があまりに不憫」をご覧ください。
参考文献
- 天野忠幸編『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(2023年2月 戎光祥出版)
- 岡田正人編著『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
