天空の城として知られる竹田城は、戦国時代どんな城だったのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目されるこの城は、姫路城の北方約70kmのところにあり、但馬の有力国衆・太田垣氏と関係の深い城でした。
生野銀山にも近く、そんな重要エリアに豊臣秀長が「城代」として置かれたのは天正五年(1577年)のこと。
信長の一代記として知られる『信長公記』にも記述されている程ですが、一体なぜ秀長が竹田城に入ることになったのか。
そこを拠点に何をしたのか。

豊臣秀長/wikimedia commons
今後のドラマでも重要となる竹田城と豊臣秀長の関係を史実から振り返ってみましょう。
秀吉の但馬攻めで竹田城が陥落
天正五年(1577年)10月、播磨から中国地方への攻略を進める羽柴秀吉は、北方の但馬へ攻め込むことにしました。
但馬は、播磨のすぐ北に位置する国。
その重要拠点を押さえないまま中国攻めに踏み切れば、後方を突かれる危険性がある。
そこで秀吉は、弟・秀長の軍勢を増強し、但馬へ進撃させました。
羽柴の本軍ではなく別働隊として秀長を出陣させたことは、大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証である黒田基樹氏の著書『秀吉を天下人にした男』等でも記されています。
結果、秀長は短期間で但馬を平定し、竹田城を含む要所を押さえることに成功しました。
『信長公記』では、その後、秀長が竹田城の「城代」として置かれたと記しています。
「城主」ではなく、あくまで秀吉の命を受け、前線基地に配備されたんですね。
城代と言えども、やることは山積です。
たとえ城を落としても、周辺の村や町を整備しなければ住民は戻って来ず、税収もなく田畑は荒れてしまいます。
在地の有力者もきちんと従えなければ、反乱が起こる危険性があり、竹田城に入った秀長が真っ先に直面したのも人心掌握の問題でした。
そこで注目したいのが、山口町に関する文書です。
夫役免除で住民を呼び戻す
竹田城の近くに位置する山口町は、生野銀山にも近い、播磨と但馬を結ぶ交通の要でした。
但馬を押さえるなら、山口を安定させなければならない――豊臣秀長は天正五年(1577年)11月、次加野金十郎や桜井左吉らに「夫役免除に関わる文書」を出しています。
夫役とは、労働負担のこと。
戦乱で逃げ出した地域に重い負担をかければ、人々は戻ってきません。

絵・小久ヒロ
ゆえに負担を軽くして百姓たちの帰還を促し、同時に、乱暴狼藉や略奪のような悪党的行為を取り締まる趣旨の文書も出されています。
まとめると以下の通り。
・乱暴狼藉は許さない
・村に戻れば一定の負担は免除する
・命令は秀長の文書により保証する
ドラマや漫画ではほとんど取り上げられない地味な話ですが、戦後処理としては基本かつ重要な内政業務となります。
いつだって地域の人々がいるからこそ戦国武将も生きていけるのであり、竹田城に置かれた秀長は現地支配の手続きを堅実に進めていたようです。
むろん全てがスムーズに進むわけではありません。
天正六年(1578年)2月、それまで味方であった播磨三木城の別所長治が突如として離反。
これにより、秀吉と秀長は天正八年(1580年)1月まで続くことになる過酷な「三木合戦(三木城包囲戦)」に全力で対処することになり、但馬全体の平定は後回しにされました。
竹田城を再び奪われ
羽柴秀吉は天正六年(1578年)、再び但馬へ向かっています。

絵・富永商太
播磨では、別所長治の三木城をめぐる争いが激化しており、但馬の諸勢力まで蜂起すれば中国攻めの後方が大きく揺らぎます。
こうした情勢の中、秀吉は周辺エリアの国衆たちを呼び出し、誓紙を取ったとされます。
弟に任せた竹田城を軸として、但馬国衆の支配を強めたのです。
しかし、です。
天正七年(1579年)になって竹田城は、再び太田垣輝延に奪われてしまいます。
羽柴軍は、播磨での三木城攻めに兵を割かねばならず、但馬の支配は後退を余儀なくされてしまったのです。
鮎漁権や雑税免除
天正八年(1580年)、羽柴方は再び但馬攻めを進め、情勢は大きく動きました。
竹田城を再び羽柴軍のものとすると、豊臣秀長の立場も変化していきます。
天正五年(1577年)の段階では竹田城の「城代」でしたが、天正八年(1580年)以降は実質的に秀長の拠点として機能。
そのまま同年に秀長は、竹田城の北にある出石・有子山城も攻略し、竹田城は家臣の桑山重晴に預けられたとされます。
この頃の様子が記された『森垣文書』や『加藤文書』の中には、秀長が在地の人物に対し鮎漁の権利を認めた「円山川流域の鮎漁権」に関する文書があります。
誰がどこで漁をしてよいのか、その権利を誰が保証するのか。
川の漁業権は、田畑などと並んで地域の重要な収入源となるため、支配者にとっては統治に関わる大きな問題でした。
下手な決裁をくだせば人心は離れ、一揆の原因ともなりかねません。
さらに『田中文書』という記録では、養父郡の太郎左衛門尉という人物に対しての諸公事、つまり雑税の免除を認めています。
こうして味方となる在地勢力を取り込みながら、一方で、敵対勢力には武力で応じる場面もありました。
桑山重晴が竹田城を預かる形になったことも、秀長が家臣団を通じて統治をしていたことを示しています。
秀長本人は、後に大和・紀伊・和泉方面へも活動範囲を拡大させますが、当然、すべての城を本人が統治するわけにはいかず、信頼できる家臣を置いて拠点を任せていました。
竹田城に桑山重晴の名が見えるのは、そうした流れの一例と言えるでしょう。
竹田城の石垣よりも重要な内政力
竹田城といえば、雲海と並んで注目されるのが石垣です。
山上に残る壮大な石垣群は、最初から築かれていたのか?
それとも豊臣秀長が作ったのか?
実は秀長が竹田城に入った頃、城の改修や整備が進められ、石垣の改修に関わった可能性も指摘されていますが、現在残る総石垣のすべてが秀長時代のものとは断定できません。
後に同城を治める赤松広秀(斎村政広)時代に大きく整備されたとする見方もあります。

ただし、本記事で注目したいのは、石垣そのものよりも、竹田城をどう治めたか?という点です。
竹田城を拠点に但馬の統治を経験したことは、後の大和支配にもつながっていったと考えられます。
城は、敵方から奪ってからどう治めるか?が重要であり、住民を元の家に戻し、税負担を調整しながら権利も保証し、従う者と逆らう者を選別して、家臣を配置する――。
雲海に浮かぶ「天空の城」の麓では、泥臭い内政仕事が行われていたのであり、それが秀長にとって大きな経験となりました。
天下人・秀吉の補佐役として知られる秀長は、竹田城での経験を通じて、大名としての実務を積み重ねたのです。
参考文献
- 柴裕之編著『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究14』(2024年11月 戎光祥出版)
- 和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(2025年10月 中央公論新社)
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(2025年10月 KADOKAWA)
- 黒田基樹『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(2025年9月 講談社)
- 河内将芳『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
