文治2年(1186年)5月12日は、源頼朝の叔父である源行家(ゆきいえ)の命日。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で杉本哲太さんが演じるこの武士は、小うるさい親戚のオジサン的存在であり、【墨俣川の戦い】で平家と一戦迎えたことでも知られます。
墨俣川とは現在の長良川(岐阜県)のこと。
後には斎藤道三が息子・斎藤義龍に斃された【長良川の戦い】の舞台にもなっていますね。
時代が下るにつれて川の流れも変わっていますので、まったく同じ場所で戦ったわけではないとしても面白いものです。
日付については他の説もありますが、ともかく先へ進めましょう。

もともと各地で源氏蜂起を促していた源行家/wikipediaより引用
墨俣川の戦い
墨俣川の戦いが起きた時期は、富士川の戦い後のこと。
平家が京都へ逃げ帰り、八つ当たりで奈良を焼いた後です。
墨俣川の戦いで特筆すべきは【治承・寿永の乱】とも呼ばれる源平争乱の中で、珍しく平家方が勝ったということでしょう。
1181年、平家方は奈良を焼いた後、平清盛の五男・平重衡(しげひら)を総大将として軍を整えて再び東へ向かいました。

平重衡/wikipediaより引用
これに対し、源氏方は源行家を大将として墨俣川で待ち受けます。
川沿いを戦場に選んだ時点でフラグ乱立状態ですが、ついでに言えば源氏方のほうが兵数的にも圧倒的に不利でした。
かなり盛られた数字ですが平家3万に対し、源氏6千との表記もあります(実際は数分の一でしょう)。
源氏としては、ちょっとお粗末な展開ですよね。
これは彼らの内部事情も絡んでいました。
行家は頼朝と折り合いが悪く、半ば以上、独断専行していたのです。「天の時・地の利・人の和」という戦のセオリーと真逆の行動をしていたわけですね。
こんな状態で勝つのは至難の業であります。
川を渡ったときに衣服が濡れて夜襲バレバレ
ついでに源義円(みなもとのぎえん)という源義経のすぐ上のお兄さんが「そうだ、夜襲をしよう!」とこれまた一人で勝手に動いてしまうから大変。
義円は川を渡って敵陣に紛れ込んで夜襲を企てましたが、この計画はあっさりバレてしまいました。
現代のようにそこかしこに大勢が渡れるような橋がない時代ですから、川を渡るとなれば浅いところを歩くしかない。
川を歩いて渡れば、当然服が濡れます。それを平家方に見られてしまったのです。
「俺らの味方がこんな夜更けに川を渡ってくるわけがない」ということで、夜襲を始めるどころか返り討ちにあってしまうのです。実に残念ですね(´・ω・`)

岐阜県大垣市墨俣にある合戦碑/Wikipediaより引用
同じ源平の戦で奇襲の成功例というと、やはり【一ノ谷の戦い】や【屋島の戦い】ですけれども、あれは「こんなところや天候で来るわけがない」という敵の思い込みを逆手に取ったものです。
逆に言えば、そういう大前提がなければ奇襲というものは成功しませんよね。
ですから、墨俣川の戦いでも川を馬で大きく迂回し、もっと上流のほうで渡河してから一気に平家軍へ襲い掛かるなど、何かもう一工夫あれば良かったのかもしれません。
結局、行家は息子の行頼も捕らえられるなどの大敗を喫して、軍を撤退させるしかありませんでした。
ならば義仲に乗り換えだ!
その後、源氏軍は熱田(現・名古屋市)まで退いて立て篭もったところも突破され、さらに東の矢作川(現・静岡県)まで撤退します。
現在の道路にして熱田から約40km。
墨俣からは約83kmほど逃げたことになります。
戦国時代に【戸次川の戦い】で完敗した仙石秀久が、豊後(大分県)から讃岐(香川県)まで逃げた――という話には敵いませんが、83kmといえばフルマラソン二回分ですから天晴れな逃げっぷり。
ここまで来るなら平家方はもっと追いこんでも良さそうなものですが、「源氏に援軍が来るってよ」というウワサを聞いた平重衡は軍を撤退させました。冷静ですね。
この後、源行家は京都奪還に目を向け、平家追討のため伊勢神宮や延暦寺との連携を画策します。
しかし、それに失敗すると鎌倉へ出向いて頼朝に「所領をちょうだい」と言い出すのですから図々しいというかなんというか。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
頼朝にはアッサリ断られ、ならば次は「源義仲(木曽義仲)だ!」とばかりに方向転換をはかります。
信念がない代わりに、妙な行動力と一定の交渉力だけはあるんですよね。
義仲だって、行家なんかと手を組みたくないだろ……?と思いきや、寿永2年(1183年)7月、共に京都入りして後白河法皇に拝謁しました。
今度は後白河法皇だ!
源行家は、そこで従五位下備前守に任じられ、院の昇殿まで許されるようになります。
しかし、義仲とは不仲になります。
『平家物語』では、後白河法皇に近づいた行家が、義仲のことを悪く吹聴したとかで、事実だったら心の底からしょーもない!
源頼朝も、そんな人格を見抜いていたから、身内でも遠ざけたんですかね。
末弟(源義経)はルール違反でも自覚なしだし、叔父(源行家)は不誠実だし、なかなか近親者には恵まれません。
唯一の例外だった地味な弟・源範頼も、曽我兄弟の仇討ち(曽我事件)で運の尽きになってしまいましたし……。

源範頼/wikipediaより引用
これでは嫁の実家をアテにせざるを得ません。
まさか北条家が、政子の息子を殺すとは思ってもいなかったでしょうしね。
閑話休題。
行家も武士である以上、京都での政治だけでなく、本業もこなさなければなりません。
もちろん合戦(平家追討)のことですが、これがどうにも戦下手で……。
同年11月に播磨で対峙した平家に負けて和泉へ敗走すると、今度は今井兼平率いる義仲軍にも敗退。

今井兼平/wikipediaより引用
もうワシでは勝てん!と悟ったのか、義仲と戦うためにやってきた義経・範頼らの軍を援助するというポジションを取ります。
頼朝に媚を売っているような姿が想像できて悲しくなりますが、その後、義仲が滅亡しても、行家は河内和泉に居座って一定の勢力は維持し続けました。
メンタルがタフすぎますって!
こうなったら義経だ!
「あのクソ叔父を討て!」
文治元年(1185年)8月、ついに源頼朝から源行家討伐の命がくだされました。
この決定に先立ち、同年2月【屋島の戦い】、その翌月【壇ノ浦の戦い】を経て、平家との戦いに終止符を打っていた頼朝。
いい加減、あの叔父を放置しておくわけにもいかんでしょ……とばかりに、近江源氏の佐々木定綱に行家討伐を命じたのです。
名目的には「謀反を企んでいるから討て」というものだったようで、戦下手の行家としてはどうするのか? まさか戦うのか? と、そんなわけはありませんでした。
今度は、頼朝と不仲になっていた義経と手を組み、さらには後白河法皇の協力も得るのです。

源義経/wikipediaより引用
さすがにしぶといというか、少しだけ知恵が回るというか。良く言えば最後まで諦めないということかもしれません。
結果、後白河法皇は行家を四国の地頭に任命し、さらには頼朝追悼の院宣も出されました。
法皇としては、義経と行家を使い、鎌倉で強大化する頼朝に対抗するのが狙いでしたが、肝心要の兵(武士)が集まりません。
まぁ、頼朝に歯向かってまで、“戦が鬼強い”義経と“戦が下手すぎる”行家の凸凹コンビに従いたいとは思いませんよね。
しかもそんな正念場で、行家と義経が乗った船が難破してしまうというズッコケを演じてしまい、今度はこの二人に対する追悼の院宣が出される始末。
ギャグ漫画みたいにドタバタした展開で、一体、彼らは何をやっているのか……。
★
行家はその後、河内和泉へ潜伏。
頼朝の追手をかわしていましたが、もはや時間の問題でした。
程なくして北条時定・常陸坊昌明らによって捕縛され、文治2年(1186年)5月12、梟首(さらし首)となりました。
その後、頼朝の元へ首は送られたとのことです。
あわせて読みたい関連記事
-

なぜ義経の同母兄・義円は「墨俣川の戦い」で呆気なく討死したのか
続きを見る
-

源頼朝はどんな生涯だった?武家の御曹司が伊豆に流され鎌倉政権を樹立
続きを見る
-

戦の天才だった源義経の生涯|自ら破滅の道を突き進み奥州の地に果てる
続きを見る
-

富士川の戦いで惨敗した平維盛はその後どうなった?平家敗北の戦犯か
続きを見る
-

南都焼討を実行した平重衡|なぜ清盛は東大寺や興福寺を攻めたのか
続きを見る
【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
墨俣川の戦い/Wikipedia





