戦国時代のヒール(悪役)と言えば、誰を想像されます?
織田信長をして大悪人と言わしめた松永久秀か。
信長の舅である斎藤道三か。
あるいは周囲の人たちを暗殺しまくった宇喜多直家あたりか。
今回注目したいのは、彼らの最期。
【信貴山城の戦い】で戦死した松永久秀(爆死ではない)や、【長良川の戦い】で息子の斎藤義龍に殺された道三は、戦国ファンにもよく知られております。
では、もう一人の謀将・宇喜多直家の死因は?

宇喜多直家/wikipediaより引用
周囲に恨みを買いまくるような生き方でしたので、謀反や暗殺または討ち死になどの悲惨な終わりだったであろう……と思われる方も多いかもしれませんがさにあらず。
正解は「病死」、実は畳の上で死んでいるのです。
悪逆無道の限りを尽くしたとされる直家は、一体どのように生き、どのように死んだのか。
病気の話から入ることが多いこのコラムですが、今回は直家の暗殺人生から振り返ってみたいと思います。
良家の生まれで放浪生活
宇喜多直家の祖父、能家は備前国で守護代を務める浦上氏の家臣で、お城(砥石山城)も所有する人物でした。
が、家中の権力争いで殺され、当時6歳の直家は父と命からがら逃げのび、放浪生活を余儀なくされます。
ゲームでいったらハードモードからのスタートですね。
そして成人した直家は再び浦上家に仕え、メキメキと頭角を現すようになります。
ここから直家の暗殺人生も始まったのです。
1549年直家は、主君の命令で砥石山を攻め、自身が生まれ育った城を奪還。
浦上家の中でチカラを付けていく直家を見て「アイツはやべぇ」と思った人物が中山信正です。
信正は直家にやられないようにと娘を嫁に出し、舅となりました。
しかし直家は、全く容赦をせず信正に謀反の容疑をかけて殺してしまうばかりか、ついでにじーさんの仇も謀反の疑いをかけて殺害。
さらには戦においても、直家は裏道街道を邁進します。
1561年の龍口城攻めでは「城主が男色家って聞いたんで美少年刺客を送っちゃえ」作戦を展開します。
これが見事にハマって相手の寝首をかき、直家はその混乱に乗じて城を攻め、難攻不落といわれた龍口城をいとも簡単に落としてしまいます。清々しいほどやで……。
さらに三村家親との戦いではスナイパーを雇って家親を暗殺。
当時としては最先端の鉄砲を使った、まさしくゴルゴばりの展開でした。
マニアとしか思えない殺しっぷり
かくして周囲の勢力を駆逐し、浦上家臣で随一の勢力となった直家――なんてサラッと書いてみましたが、直家に滅ぼされた松田家最後の当主「松田元賢」の正室は、なんと直家の娘です。
直家は松田家の重臣・伊賀久隆を寝返らせ、これと組んで城を攻めたのです。
元賢は戦死し、正室だった娘は自害。
いや……、お父さん……、さすがにコレはあんまりですってば……。
ちなみに裏切った伊賀久隆は直家の妹婿(ようするに義兄弟)なんですが、後に直家に毒を盛られて死んじゃいます。
もう暗殺が稼業と言わんばかりで、誰も止められないぜ、オーマイガッ!
チカラを付けたら? そりゃ謀反ですよ
こうなったらやることは1つ、下克上です。
1569年、直家は、織田信長や播磨国の赤松政秀と手を結び主君、浦上宗景に反旗を翻しました。
しかし、これは色々あって失敗し直家は宗景に降伏。私だったらこんな危険人物を生かしておかないですが、宗景は特別に助命してしまいます。
あ〜あ、こりゃもうフラグですよね?
そう思ったら案の定、直家は5年後に再度謀反を起こします。今度のパートナーは毛利で、直家は宗景を追い出すことに成功しました。
こうして備前を手に入れた直家は毛利家の配下で戦うのかと思いきや、1579年に毛利と手を切り織田信長の家臣となります。
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そして毛利とドンパチを繰り返しました。
まさに戦国、昨日の友は今日の敵ですね。
しかし、毛利との戦いのさなか、ある病気が直家を襲います。
その病気とは『尻はす』です……って、もちろんフザけてませんし誤字でもありません。
きちんと『尻はす』と記録が残っているのですが、そんな病名、聞いたことないですよね。
となれば文献から推察するしかないでしょう。
『尻はす』って一体なんなのさ!?
直家の死について書かれた文献には以下のようにありました。
『或説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、二月中旬より、此穢れたる衣類流れざるより、直家はや死去ありしといふ事を、外にて推量して、皆之を沙汰しけるとぞ。』(備前軍記より)
【尻はす】と呼ばれる腫物は、膿の混じった血が沢山出ることは分かりました。
が、それ以上は不明です。
近年書かれた読みモノでは「尻」というキーワードと出血から『大腸癌』では無いか?という説が多く見られます。
しかしながら『腫物』という表現は主に『皮膚に出来た病変』を指す場合に使われます。
大腸癌も腫瘤を形成するタイプがありますが体表から見ると目立ちません。
また、「膿と出血を拭き取った衣類を川に流して捨てた」との表現からも『身体の表面にできた腫瘤から膿や血が大量に出た』と解釈することもできます。
この場合は『皮膚癌』の一種ではないかと推測。
小説『宇喜多の捨て嫁(→amazon)』では、刀傷に出来た腫瘍が穢れた血膿を吹き出し、その様子が汚物を排泄する尻に似ていることから「尻はす」と呼ばれると表現しており、この解釈、ナイスですね!
こうした経過から『癌』であった可能性は高いです。
もう、
『何の癌なの?』
という点については、そっとしておいて下さい、判断つきかねます。
かくして謀略の限りを尽くした直家も病には勝てず、天正9年(1581年)の末頃に岡山城で病死しました。
享年53。
『兄と会う時は鎖帷子 by宇喜多忠家』
身内にも容赦の無く実の弟にもビビられていて、
『兄と会う時は鎖帷子by宇喜多忠家』
なんてエピソードも残っている宇喜多直家。
ただ、家臣を粛清したことはなく、どちらかと言うと慕われるお殿さまだったようです。
意外ですよね。むしろ身内に厳しい、という。
病が重く気弱になった際、こんなエピソードが残されてます。
「俺が死んだら殉死してくれるかな?」と配下の連中に尋ねたところ、忠臣であるはずの戸川秀安に「坊さんなら天国に導いてくれるでしょうが、俺ら武士は殉死しても修羅道にしか導けませんからムリゲーです。殉死は坊さんに頼んで下さい」と諌められます。
そして、これで終わらず直家が、
「理が通ってるよね、ゴメン、殉死しなくて良いよ(´・_・`)」
と素直な返事を告げるというエピソードも残っています。茶目っ気たっぷりで惚れてしまいそうになりますよね。
宇喜多直家は、確かに敵を倒すのには、多少どころかトンデモなく汚い手を使っています。
しかし、領地を広げ、家臣を養うためだったと考えると『実は良い人だったのでは?』なんて思えてきませんか。
まぁ、親戚にいたら絶対イヤですけどね。
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◆拙著『戦後国診察室2』を皆様、何卒よろしくお願いします!
【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon)
『宇喜多の捨て嫁』(→amazon)
◆吉備叢書. 第6巻 備前軍記(土肥経平)(→link)
◆『武将感状記』博文館編輯局 編(→link)
◆武人百話 : 精神修養 金子空軒, 北村台水 編 帝国軍事協会出版部(→link)
松永久秀/wikipedia
宇喜多直家/wikipedia
伊賀久隆/wikipedia
宇喜多忠家/wikipedia








