この世から何もかも綺麗サッパリなくなってしまう――“滅亡”という文字には、そんな印象があると思います。
しかし、歴史における「滅亡」は案外と生き残りがいたりして、平安末期に滅びたとされるあの一族にも当てはまります。
文治二年(1186年)6月2日、平頼盛(よりもり)が亡くなりました。
名字をご覧いただければ明らかな通り、平家一門の人物であり、平清盛の異母弟。
亡くなった時期は、壇ノ浦の戦いの翌年となります。
「平家って壇ノ浦で滅びたんじゃないの?」と思ってしまいますが……早速、彼の生涯を見ていきましょう。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
池禅尼を母に持ち皇室の女性たちにもパイプあり
平頼盛は、清盛の弟たちの中で唯一、壇ノ浦の後も生き残りました。

壇ノ浦の戦い/Wikipediaより引用
なぜそんなことが可能だったのか?
というと、彼の血筋や立ち位置が大きく影響しています。
母親である池禅尼(いけのぜんに)が皇室の女性たちとパイプを持っており、内部の情勢をよく知っていたため、頼盛もそうした繋がりを引き継ぐことになりました。
となると、清盛や後白河法皇、そして源頼朝の間でいろいろ面倒な感じになるわけです。
あらためて頼盛の生まれから注目してみますと……。
母の池禅尼は清盛の父・平忠盛の継室だったため、頼盛も場合によっては平家の跡継ぎになれる立ち位置でした。
ただ、いかんせん清盛と15歳離れていたため、平家一門を率いるのは現実的ではありません。
兄のもとで出世を重ねながら、どちらかというと清盛の嫡男・平重盛と歳が近かったため、平治の乱では一緒に武働きをしたこともあります。

平重盛/wikipediaより引用
このとき逃亡していた源頼朝を捕らえたのが頼盛の親族だったため、頼朝の助命に池禅尼が動くことになったようです。
それが後々平家を滅ぼすことになるのですが……まぁ当時はそんなこと誰もわかりませんしね。
慣習的に「え、敵の男児を生かしておくの?(´・ω・`)」と思った人は多かったでしょうけども。
清盛に冷たくされて九州へ
池禅尼が頼朝を生かした一件が気に喰わなかったのか。
功績にもかかわらず、清盛は平頼盛に対して、冷たい態度を取り続けます。
例えば、重盛の官位を上げまくる割に平頼盛にはそうしなかったり。
嫡男を優先するのは自然なことにしてもヒドイもので、そんな空気を感じとってか、頼盛は太宰大弐という太宰府の役人に就いた際、自ら九州まで行っています。
当時、太宰府への任官は名目上のことになっていて、現地に行く人はほとんどいなかったため、これまた清盛からは良い印象を持たれなかったようです。
九州に地盤があるのも悪くはない。
ということで、処罰や咎め立てはありませんでしたが、後白河法皇からはたびたび身勝手を咎められていて、一度任じられた官を解かれたりしています。

後白河法皇/Wikipediaより引用
せめて清盛につくか法皇につくか、早めに決めていれば右往左往することもなかったかも……。
結局のところ、頼盛は兄に従うことを選びました。
一年ほど中枢から遠ざけられた後は大人しく清盛に従い、清盛も頼盛への対応を少しずつゆるめています。
この頃から体調の優れなかった重盛を補佐するような形で、京都の警備を固めることもありました。
皇室の女性(特に美福門院・八条院)とのパイプを生かして動くことも増えています。ところが、です。
頼盛が情勢を理解していなかった!?
平家打倒の陰謀が企てられるようになると、またしても微妙な立場になってしまいます。
鹿ヶ谷の陰謀では、中枢人物の一人が平頼盛の妻の兄弟だったことで厳しい視線を浴びせられるのです。
いずれにせよ積極的には関わっていなかったようで、その場で追い落とされることはなかったのが不幸中の幸いですが、その後、保身のためか、平徳子(ときの天皇・高倉天皇の中宮・清盛の娘で後の建礼門院)が出産する際には頻繁に出仕していたというのがまた何とも。

平徳子/wikipediaより引用
点数稼ぎってのは、バレると余計印象悪くなっちゃいますよね……。
また、清盛と後白河法皇の対立が深まると、後者寄りと思われていた頼盛は再び疑われるようになってしまいました。
頼盛本人は逆らうつもりはなく、行動もしていなかったので濡れ衣もいいところ。
しかし、池禅尼が清盛の父・忠盛の継室ということは、頼盛を有力者と見る人も当然出てくるわけで、本人の動きに関係なく警戒されてしまうのは仕方がありません。
問題は、頼盛がその辺をよく理解していなかったのでは?というところです。
戦地で置き去りにされ命を救われた
平頼盛にとっては、居心地の悪い日々が続きます。
多少扱いがマシになるのは、高倉天皇と平清盛が相次いで亡くなってからです。
清盛の跡を継いだ平宗盛にとって、頼盛は叔父の立場。
あることないことで二人の仲を裂こうとする輩もいましたが、ギリギリのところで持ち堪えていました。

平宗盛/Wikipediaより引用
頼盛自身は、息子の官位が、平家の若い世代で突出しないよう気を配ったり、あれこれ努力をしていたんですけどね。
その余波は源氏が平家討伐に乗り出した後も続いており、平家の主だった人物が西へ落ちて行った際、なんと頼盛は置き去りにされてしまいました。
しかし、結果的にこれが彼の命を救います。
源氏側から「一族だから一緒に行動してただけで、逆らうつもりないんでしょ? なら官位だけ返せば命まではとらないよ」(超訳)という扱いになったのです。
この辺でいよいよ覚悟が決まったのか。
頼盛は密かに源頼朝と連絡を取り、鎌倉へ向かいました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
頼朝に会うときは丸腰で行き、敵意のないことを示したそうです。
それを感じ取ってか、頼朝も頼盛を父のように歓待したとか。
もちろん感情的な理由だけではなく、頼盛が後白河法皇や八条院と懇意にしており、朝廷への連絡役として働いてくれるだろうと思ったからでしょう。
もしかしたら、かつて間接的に命を助けてくれたから――というのもあったかもしれませんね。
京都ではこれまでの混乱や飢饉等により、食糧不足が起きていたため、平頼盛は頼朝へ話し、何か対策をしてくれるよう頼んでいます。
鎌倉と京都を行き来して武家と朝廷を
その後の平頼盛は、頼朝の願った通り、度々、鎌倉と京都を行き来して、朝廷や法皇との連絡役を務めました。
頼朝からは餞別の品が送られるなどで厚遇される一方、京都では後白河法皇の側近達からあまりよく思われてはおらず、自ら引き下がっています。
意外にも、壇ノ浦の戦いで滅びた自分の一族のことについて、頼盛がどう感じたかということはハッキリわかっていません。
年齢のこともあってか、同じ年の5月に出家して政治の表舞台からも引退していますが、一門の供養のためだったかどうか。
出家から約一年後に亡くなっているので、あるいは頼盛自身が何か病気になっていた可能性もありますね。
享年55。
そんなわけで実に評価が難しい人なのですが、もう少しスマートな身の振り方をしていれば、「源平の間をうまく渡り歩いた人」として良い印象を持たれていたかもしれません。
忠盛の継室の息子という立場をもう少し上手に使えていれば……。
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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
平頼盛/Wikipedia





