淳仁天皇

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天皇の座を無理やり下ろされ流刑|淡路廃帝こと淳仁天皇に何が起きたのか

2024/10/08

天平宝字八年(764年)10月9日は、淳仁天皇が廃位された日です。

「淡路廃帝」という名称でご存知の方もいらっしゃるでしょうか。

文字どおり、現役の天皇が廃位にされて淡路国へ流罪になる――かなりエキセントリックな事件が起きたのですが、実は本人には大して責任がなかったりします。

一体どういうことなのか? 事の顛末を見ていきましょう。

 


後ろ盾がなく幼いころは相当の苦労

淳仁天皇は、血筋でいえば天武天皇(壬申の乱で勝った人)の孫です。

しかし、父である舎人親王の晩年に生まれた皇子だったため、すぐに死に別れてしまって後押しを得ることができませんでした。

皇族といえど、後ろ盾がなければ貴族のようなそうでないような扱いになることが多い時代ですから、幼い頃は身分からは想像もできないほどの苦労をしたと思われます。

祖父の天武天皇(『集古十種』「天武帝御影」)/wikipediaより引用

淳仁天皇に光が当たったのは、天平勝宝九年(757年)、24歳のときでした。

藤原氏の意向で当時の皇太子が廃位され、淳仁天皇が代わりに皇太子に立てられたのです。

当時の藤原氏の当主は仲麻呂という人で、淳仁天皇は仲麻呂の息子の未亡人と結婚したり、仲麻呂の私邸に住んだり、大いに庇護を受けています。

この藤原仲麻呂という人も後々違う名前(恵美押勝)になるんですが、ややこしいのでこちらの名前で統一しますね。

上記の通り、幼い頃の淳仁天皇は暮らし向きで苦労したでしょうから、「寄らば大樹の陰」という気分だったのかもしれません。

しかし、こんな親切をしてくれるのは、よほどの忠臣か野心のある人物と相場が決まっています。

仲麻呂は大方の予測通り後者でした。

 


淳仁天皇 vs 孝謙上皇 vs 仲麻呂の三つ巴

淳仁天皇が即位すると、仲麻呂のでしゃばる機会が非常に多くなりました。

また、淳仁天皇に位を譲った孝謙上皇(女帝)が権力を持ち続けていたため、淳仁天皇は、仲麻呂とも上皇とも対立するハメに陥ります。

ここでややこしいのが、

淳仁天皇
vs
孝謙上皇&仲麻呂

だったわけではなく

淳仁天皇
vs
孝謙上皇
vs
仲麻呂

という三つ巴状態だったことでしょう。

つまり、誰か一人が他の二人を何とかしないとどうしようもないわけです。

すると藤原仲麻呂がクーデターを企てて兵を挙げました。

朝廷も兵をもってこれを鎮圧し、仲麻呂の計画は失敗、一族皆殺しという極刑に処されます(藤原仲麻呂の乱/恵美押勝の乱)。

これだけなら奸臣がいなくなって万々歳かもしれません。

しかし、上記の通り淳仁天皇はかつて仲麻呂と大変密接な関係にあったため、孝謙上皇から「アナタもアイツと同じ穴のムジナでしょ? 政治から引っ込んでもらうわね」(※イメージです)と言われ、淡路島に流刑となってしまったのです。

それが天平宝字八年(764年)10月9日のこと。

しかし、力が弱くてもそこは天皇。

仲麻呂と一緒に乱を起こしたわけではなかったので、淳仁天皇を慕う貴族もいくらかおりました。

淡路島なら平城京からも近いですし、実際に淳仁天皇の下まで行った人もいたようです。

 

淡路島での逃亡失敗直後に亡くなっている

孝謙上皇からすれば

「アイツを放っておくとそのうちまた担ぎ上げられるかもしれない」

と警戒したくなるような状況だったでしょう。

結果、淡路島の警備が厳しくなり、天平神護元年10月、淳仁天皇は逃亡を実行。

しかし、すぐに捕らえられ、その翌日に亡くなってしまいます。

今より寿命が短いとはいえ、この流れで当時まだ33歳の淳仁天皇に何が起きたのか……想像に難くはありませんよね。

淳仁天皇 淡路陵/photo by Saigen Jiro wikipediaより引用

こういった経緯により、淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれるようになり、長い間「天皇」として認められませんでした。

正式に名誉が回復されたのは、なんと明治三年(1870年)のこと。

他の流罪や廃位された天皇とともに、明治天皇によって正式に歴代天皇の一人として扱われるようになったのです。

今でも、資料によっては「淳仁天皇(淡路廃帝)」というような書き方をされていることがありますね。

ちなみに、淳仁天皇が廃された後は孝謙上皇が重祚して称徳天皇になっています。

ついでに、流罪の話も少しだけ触れておきましょう。

 


流罪と追放の違いは?

淳仁天皇の場合は廃位された後も一応「親王」=皇族の一員として扱われていたので、淡路島での生活はさほど悪くなかったと思われます。

しかし、流刑とは元々「本来なら死罪だけど命だけは許してやんよ※イメージ」=「死刑から減刑したもの」という扱いだったので、基本的に罪人の生活の保障はありません。

江戸幕府の四代将軍・徳川家綱が少年の頃、「流罪にした者は何を食べているのか」と聞いたとき誰も答えられず、「命を助けたのに、食事の保証さえなければ見殺しにするも同然ではないか」とツッコミを入れ、それを聞いていた徳川家光が大喜びしたという話が有名ですね。

場合によっては配流先に送られる途中でブッコロされたり、あるいは逆に赦免されて地元に戻れることもあったそうなので、まさに天国と地獄という感があります。

パッと見よく似ている、「流罪」と「追放」の違いは「特定の場所に押し込めるかどうか」という点のようです。

現代で例えるとすれば、「流罪が禁錮」で「追放が出禁」みたいな感じでしょうか。

だいぶ罪の重さが違いますが、まぁイメージということで。


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【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
高森明勅『歴代天皇事典』(→amazon
淳仁天皇/Wikipedia
流罪/Wikipedia
日本における追放刑/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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