徳川昭武

徳川昭武/wikipediaより引用

幕末・維新

欧州視察中に幕府が倒れてしまった!将軍の弟・徳川昭武が辿った波乱万丈の生涯

2025/07/02

たとえ生まれと育ちがよろしくても。

トントン拍子に行くとは限らないのが人生。

特に歴史上では不遇な時を過ごす人物が数多見られますが、近年でその一人に数えられるのが明治43年(1910年)7月3日に亡くなった徳川昭武でしょう。

大河ドラマ『青天を衝け』では板垣李光人さんが演じ、出番も多かったので覚えていらっしゃる方も多いでしょうか。

渋沢栄一と共にヨーロッパへ派遣された徳川慶喜の弟で、慶応三年(1867年)にパリへ到着し、色々な苦労を重ねられました。

そんな徳川昭武とは、史実でどんな人物だったのか。

生涯を振り返ってみましょう。

徳川昭武/wikipediaより引用

 


徳川昭武 渋沢らと共にヨーロッパへ

徳川昭武は、駒込にあった水戸藩の中屋敷で嘉永六年(1853年)に生まれました。

父親は、幕府からも大奥からも煙たがれていた、あの暴れん坊の徳川斉昭(十八子)。

徳川斉昭/wikipediaより引用

そのせいか。世情の不安定さなどの理由で、幼い頃から水戸と江戸や京を行ったり来たりで、10歳のときには京で佐幕派のリーダーをやっていたりします。

もし慶喜が大坂から一人逃亡することなく、西軍と徹底抗戦していれば、昭武もまた戦場に出向いたかもしれませんね。

実際には、14歳のときに清水徳川家(御三卿の一つ)に養子入りして家督を継いで水戸家から出ています。

同時に兄・慶喜の名代でヨーロッパへ留学することになりました。

この時のお供の一人が渋沢栄一です。

慶応3年(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用

 


欧州視察中に大政奉還

徳川昭武の一行は、パリでナポレオン3世に謁見した後、パリ万博を見物。

パリ万博の俯瞰図/wikipediaより引用

その後スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリスで各国の王に謁見しています。

一周してパリに戻ってきてからはヨーロッパの社会経済などを学んでいきました。

ベルギーを訪問したときの昭武(左から3番目)/Wikipediaより引用

しかし、翌年に慶喜が大政奉還を行ったことから、昭武の立場が微妙になってしまいます。

良くて一般人に格下げ、ヘタすれば罪人扱いになるからです。

ヨーロッパの常識で言えば、前政権の一族は皆殺しになってもおかしくはないですしね。

 

廃藩置県で知事を罷免され陸軍の教官

お供の中には先に帰国する人もいました。

昭武は、慶喜から「お前はそのままそっちで勉強してなさい」(意訳)という手紙が届き、しばらくパリに残ります。

しびれを切らした明治新政府から帰国命令書が届いたため、やむなく帰国を決意することになるのですが、最後に10日間かけてカーンやシェルブール、ナントなどを旅行したようです。

カーンは城下町、シェルブールとナントは港湾都市なので、帰国してから何かしら役立てるための視察だったのでしょうか。

パリに戻ってきたとき、長兄で水戸藩主の慶篤が亡くなったため、跡を継ぐようにという知らせを受け取ります。

こうして昭武の留学は1年ほどで慌ただしく終わることになってしまいました。

なお、この間、藩主を失っていた水戸藩では以前からの混乱に拍車がかかり、天狗党や諸生党らの闘争で内乱状態になっていました。

 


版籍奉還で水戸藩知事となるも

戊辰戦争時に不在だったためか。

徳川昭武は版籍奉還の際、すんなり水戸藩の知事に任じられています。

その後「北海道の土地をください」と願い出た時も、あっさり許可が降りました。

といっても北海道に定住することはなく、廃藩置県の際は免職になってしまいました。

4年ほどゆっくり過ごした後に陸軍へ入ると、出身が出身だからか、実戦に赴くわけではなく、教官となります。

このとき昭武は22歳ですから、現代でいえば新卒の先生みたいな感じだったんですかね。

 

30歳で奥さんに先立たれ即隠居

陸軍の教官になった翌年に結婚、その後も度々ヨーロッパへ留学したり旅行したりしています。

とはいえ、長女が産まれたときに奥さんが亡くなってしまったため、あまりプライベートでは幸せではなかったのかもしれません。

なんせ妻の死から4ヶ月後に、30歳で隠居願を出しているくらいですから。

家督は甥っ子に譲り、その後は千葉県松戸市の戸定(とじょう)邸という屋敷で隠居生活をしています。

現在は千葉大学園芸学部のお隣にあたるのですが、さすが元大名の屋敷というべきか、立派なものです。大正天皇が皇太子時代に行啓されたこともあるとか。

松戸市の戸定邸HP(→link

隠居後の昭武は同じく隠居した兄・慶喜とも互いに行き来し、写真や狩猟など、共通の趣味で仲良く過ごしていたようです。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用

基本的には「ご隠居さん」で、麝香間祗候(じゃこうのま しこう)という明治天皇の相談役に任じられていたため、度々皇居へも来ていたとか。

この役職には武家の人々も多くいて、同じ徳川家では徳川家達(慶喜の次の徳川宗家当主)や慶喜も任じられていました。

徳川の人が一堂に会することがあったのかどうかはわかりません。

もしかしたら皇居の一室で、武家社会の終わりについて語らうこともあったのかもしれませんね。


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【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
徳川昭武/Wikipedia
戸定歴史館/松戸市

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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